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中日友好の実践者、白西紳一郎 「不東」の信念貫く (2)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第10期

人民網日本語版 2015年11月10日14:53

「不東」は高校の先生から学んだ言葉だという。その先生によると、衆生を救うためにと天竺へ取経の旅に出た三蔵法師は、真経を手にできなければ東へは行かないと誓ったという。つまり、真経を手にできなければ帰らないという意味だ。三蔵はそうした強い意志を刻み、多難の道中を経て最終的に取経に成功する。この物語は白西さんを心服させるとともに、「不東」は生涯の信条となり、中日友好事業に従事することへの決意となった。

「中国各地を訪れたが、中国以外には行ったことがない」。「アメリカは世界最強の国だが、アメリカが全世界でやっていることに不満があるので、アメリカに行く気はない。どうしてもというなら、中国、欧州を通って西回りでアメリカに入る」と話す。

白西さんは1940年6月26日に広島で生まれ、広島大学附属高校在籍中、東洋史を研究する先生の影響で「三国志」や「西遊記」といった中国を代表する文学書籍を読むようになり、中国に強い関心を抱くようになった。また、故郷広島は日本の「中国地方」に位置し、「中国銀行」や「中国新聞」、「中国電力」といった「中国」を冠する会社や機関が多く、「中国」という言葉にもなじみがあるという。

大学を卒業後は中国への留学を考えていたが、様々な原因でそれは叶わぬ夢となった。1967年に仕事を始め、同年5月に天津で日系企業の展示会が開かれることを知り、日本の貿易組織を通じて展示会事務局に入って初訪中し、このときから中国との縁を深めた。

侵略戦争と反侵略戦争を区別 交流通じて理解促進

中日友好交流に従事するとともに、白西さんは「戦争反対、歴史を忘れない」の原則を堅持し、日本が発動した侵略戦争の謝罪と反省の意を中国国民に繰り返し伝え、日本政府にも歴史を正視するよう積極的に呼びかけている。白西さんが5歳の時には戦争は終結していたが、戦争の惨さは幼少期の白西さんに深い印象の残したため、平和の尊さを痛感している。

1945年8月6日、米軍は広島に原爆を投下し、日本の降伏を加速するとともに、現地に甚大な被害をもたらした。白西さんはあの日、祖母と広島におり、投下された原爆の爆発音を今でも鮮明に覚えている。すだれ越しに稲妻のような光を見るや否や、巨大な爆発音が続き、祖母とすぐに物陰に隠れたために怪我をせずに済んだ。実家はお酒を造っていたため、2日後の8月8日、父親の自転車の後ろに乗って広島市中心部にある酒蔵を見に出たが、あたりは廃墟と化していた。白西さん一家の命は守られたが、友人や親戚は原爆の犠牲となっており、こうした情景は生涯忘れ難い幼少期の記憶となっている。「なぜ広島がこんなに大きな爆弾に襲撃されねばならないのか」、当時小学生だった白西さんは理解できずにいた。その後分かったことは、米軍は日本の重要な軍港を狙い撃ちしたということ。当時広島には江田島海軍兵学校、大型戦艦の製造所などがあり、侵略戦争に加わった多くの軍隊がそこから派遣された。「広島は決して普通の街ではなく、日本軍国主義の重要な拠点」だったのだ。


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