日本留学後、内蒙古の砂漠緑化に尽力する李亜芬博士
○人物紹介:
李亜芬、女性。1988年に日本へ留学、日本語学校で日本語を学んだ後、東京大学経済学部金融学科に入学。2000年に帰国、大型国有銀行に入行し、国際経済金融問題に携わる。2010年、北京市政協委員を務める北京晨拓聯キン科技発展有限公司の廖理純・董事長らとともに、内蒙古渾善達克(フンサンダク)緑化基地を創立、週末や休暇を利用してボランティアと砂漠緑化作業に取り組む。
○記者ノート:
1988年に日本に留学した李亜芬さんは、偶然の機会から、神戸の某大学で開催された、日本の有名な砂漠緑化専門家である遠山正瑛氏による「中国砂漠地帯での義務植樹と緑化活動」をテーマとした講演を聞きに行った。彼女は、これをきっかけに、留学生活を終えて北京に戻った後、遠山氏が主催する内蒙古自治区フンサンダク砂漠地帯での砂漠緑化ボランティア活動に何度も参加した。3年前には、企業家の廖理純氏らとともに、内蒙古フンサンダク緑化基地を創設した。彼女は、「80歳を過ぎた日本のお年寄りが、わざわざ中国の砂漠地帯を訪れ、緑化実現のために努力している。我々中国人は、もっと意欲的に砂漠緑化に取り組むべきではないか?」と語った。
○取材記:
約束の場所で落ち合うやいなや、李さんは「少し前に基地で植樹を行い、帰ってきたばかり」と話し出した。「今回の植樹には、中国に留学中の日本人留学生、中国で働いている日本人、北京の大学で教鞭をとっている米国人やインド人など、外国人の参加が多かった。彼らのボランティア活動は非常に立派なもので、お互いの友情と理解を深めることができた」と続ける李さんへの取材は、このような流れで始まった。
李亜芬さん
■安定した職を手放し日本へ留学 学費稼ぎにアルバイトに精を出す
記者:「いつ頃日本に留学したのですか?その当時の中日両国の交流は、どんな様子でしたか?
李亜芬:私は1988年に日本に留学しました。中国国内の大学を卒業後、上海宝山鋼鉄(宝鋼)に就職し、新日鉄による投資プロジェクト関連業務に就きました。当時、宝鋼グループに対する新日鉄の投資規模は極めて大きく、管理工程はすべて、新日鉄のモデルに倣ったものでした。私が配属されたのは設計部門で、しょっちゅう視察のために現場に赴きました。他の鉄鋼メーカーを見学する機会もあり、宝鋼が他企業より随分優れていると直感的に感じました。当時は、日本から来た専門家を工場内で見かける以外は、日本人に会うことはほとんど皆無でした。
記者:日本への留学を決心したきっかけは?当時の中国社会は、どんな風でしたか?
李亜芬:当時、国内と国外とのギャップの大きさを実感しました。友人が海外から持ち帰った物品はほとんど、国内にはありませんでした。また、友人から海外での体験談をいろいろ聞いて、自分も実際に海外に行けたらと強く思いました。このほか、当時の私は、国有企業の企業文化に否定的な見方を示していたので、若いうちに海外に飛び出そうと決めたのです。
記者:初めて日本の土を踏んだ時、何を感じましたか?両国の文化・風習の違いから、何か戸惑ったり困ったりしたことはありましたか?
李亜芬:日本に到着してまず感じたのは、至る所が清潔に保たれ、技術が最先端だということでした。来てしばらくは、いくつかのトラブルに遭いましたが、それまでに、何があっても乗り越えるのだと強く決心していたので、全て努力して克服してきました。
当時、日本に行く中国人が増えていたので、秩序を守らない一部の中国人が目立ち、日本人の心の中に、在日中国人を拒むような気持ちが芽生えはじめました。仕事を探すにしても、住まいを探すにしても、日本語の「だめ」が絶えず耳に入ってきました。友達がアパートを紹介してくれたのですが、エアコンや家具は一切ついておらず、家賃は1カ月1万5千円でした。とても粗末だったのですが、やっと落ち着ける場所を見つけることができて、心の底からホッとしたと同時に、将来に明るい光が差しました。
住まいが決まったので、次はアルバイトを探し始めました。最初に希望を出したところは、はっきりと断りの意思表示がなかったため、こちらからもう一度電話して確認する羽目になりました。私が先方の本意を十分理解できなかったので、応募して返事があるたびに、不採用なのかどうかを確認しなければなりませんでした。随分後になって、日本人は非常に婉曲な方法で「断る」のが普通で、ダイレクトに断ることは無礼なことだと知りました。これも、両国文化の違いの一つでしょう。