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中日民間交流の橋梁 平成日本語学校のカク志強校長に訪ねる

 カク志強(カクはおおざとへんに赤)、1958年生まれ。1988年3月に日本に自費留学した。留学期間中、新宿の日本語学校で1年、拓殖大学国際交流センターで1年、王子経理専門学校で2年、城西大学で7年学習した。最終学歴は修士。留学期間は経済的な収入のためにビジネスや高級マンションの設備メンテナンス、清掃を請け負った。1999年5月に帰国。2000年に北京平成日本語学校を設立。現在は北京平成日本語学校の会長。日本国加計学園中国総支局長。北京市朝陽区民営教育協会理事、外国語グループのグループ長。

 一連の経歴を見ると、カク志強氏が日本留学期間に様々な経歴を経てきただろうことがわかる。多くの人は日本留学期間に学費や生活費を稼ぐためにアルバイトをするが、氏は学業とアルバイトの両方で成果をあげ、また日本でも大きな事業をなしとげた。


 ----いつ日本に留学に行ったのですか。当時の中日両国の交流はどういった状態でしたか。なぜ留学しようと決定したのですか。

 私は1988年に日本に留学しました。当時、中日の関係はまさにハネムーン期でした。胡耀邦氏は日本の青年3000人を訪中に招きました。日本は大量の借款を提供して中国の経済発展を支援しました。日本が生産する家電製品が大量に中国市場に進出しました。中国は改革・開放の初期段階、市場経済導入の変動期にあり、収入は低くインフラは質が悪かったです。日本のドラマや映画が国内を風靡しました。当時、日本は高速な発展の経済のバブル期にあり、中国への影響が最大の時期でした。私は日本へ勉強のために行き(年齢が高く、国内では大学へ行くチャンスがなかった)、世界を見てみたいという理念の下で留学を選びました。


 ----日本へ初めて行った時はどう感じましたか。周辺の環境(異国文化)に矛盾を感じる気持ちはありませんでしたか。

 日本に着いたがかりの頃、私が感じたのは「ショック」という2文字ばかりでした。当時の日本国家の先進さや環境、人の資質は当時の中国とは比べ物にならず、距離は大きすぎました。当然、葛藤しました。私が国内で受けた教育の影響で、当初は日本や日本人に反感を持っていました。しかし1年後にはこうした反感はなくなりました。当時は主に政治や戦争といった面で日本人と見方が異なったため、忘年会で食事に誘われた時、大声で抗日歌曲を歌ったこともあります。

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カク志強校長
カク志強校長
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