日本の右傾化は本当に誤解なのか? (2)
「週刊!深読み『ニッポン』」第44回 第1回は1976年で、当時自民党の三木内閣は「平和時の必要最小限の防衛力の保持」を目標に設定すると同時に、国防費をGNP比1%に制限した。過去4回の防衛力整備計画で余りにも大きく変動した国防費を固定することが目的だった。だが当時日本経済はテイクオフの段階にあり、国防費をGNP比1%という莫大な額に固定することに、周辺各国は強い警戒を抱いた。
第2回は1995年で、村山富市首相の社民党と自民党が連立政権を組んでいた。冷戦終結に伴いハイテク、コンパクト、弾力性を目指すことが確認された。ちょうど阪神大震災が発生し、災害救援活動への積極的な参加が自衛隊に求められており、これも大綱に盛り込まれた。日本の政界において社民党は一貫して侵略戦争に対する反省と平和的発展路線の堅持を代表する勢力だ。このため1995年の防衛大綱はこれまでで最も「穏やか」な大綱となった。それでも「即応予備自衛官」の規定が盛り込まれた。これが当時の左右の勢力による妥協の産物であることは間違いない。
第3回は第2次小泉内閣時の2005年で、1995年の大綱での消極的な防衛の部分が主体的な防衛に改められたことが最大の特徴だ。簡単に言えば、自衛隊の海外活動に突破口が開かれたことだ。その結果が2006年の第1次安倍内閣時に可決され、自衛隊の海外出撃に法的根拠を与えた「防衛庁設置法」と「自衛隊法」だ。また、防衛庁が防衛省に昇格した。
第4回は2010年に行なわれた。2009年に自民党から民主党に政権が移った。民衆は新政権が自民党長期政権の旧風を一掃し、日本を長期低迷から脱却させてくれることを元々期待していた。だが民主党には明確な党綱領がなく、党内で意見が乱立したうえ、党首が統率能力を欠いていたため、当初から烏合の兆しが見えていた。
激しい党内抗争の結果、2009年から20012年までの民主党政権期に首相は3人就任した。頻繁な首相交代によって政策の策定と貫徹が阻害された結果、経済は下降し、政界は混迷した。民主党政権への民衆の当初の胸いっぱいの期待は完全な絶望へと変わった。そして政治に対する日本社会の不満と不信が、この時期に保守勢力の空前の発展を招いた。2010年の防衛大綱はこうした背景の下で誕生した。その内容は民主党内右傾勢力の意向をより強く反映している。2010年の防衛大綱には特に注目すべき点が2つある。第1に「基盤的防衛力」を「動的防衛力」に改めたこと。第2に南西諸島の警備・対処能力を目立って強調したことだ。また、当時民主党政権は官房長官名義で「武器輸出三原則」を緩和した。