「君たち日本人はルール厳守なんだね」とサキさんにメッセージを送ると、サキさんは、「中国の食卓でも同じようなルールがあるの?」と質問してきた。そこで私は、「あるにはあるけど、普通の人はあまり気にしないよ」と返答した。
このことが原因で、私は「ルール」に対して複雑な思いを抱くようになった。「ルールを守るべきか」についてもよく考えるようになった。
いかなる国、社会、民族、ひいては個人においても、自分なりのルールが存在する。しかし、大半のルールはその集団の「年長者」が決めたものだ。年長者が集団全体の価値観の方向性を決定し、年少者に何が正しくて、何が間違っており、どのようにすれば自分たちと同じでいられるかを教える。しかし、ルールを設定した「年長者」は結局のところは少数で、ルールが正確かどうかをチェックするのには時間がかかる。どちらかというと、矛盾した常識のルールは往々にしてすぐになくなる。
全てのポジションにはそれに対応するルールが存在する。社会人には社会人の、若者には若者の、学生には学生の、中国人には中国人の、日本人には日本人のルールがある。ルールとは製品の説明書のようなもので、全ての人がそれぞれのポジションを効果的に活用し、相応の生活に溶け込み、全ての集団が調和的に発展するのをサポートする。
人々が自分のポジションを選択する場合、時として不自由を感じる。これは、人々は時として自分が納得できないルールを守らざるを得ないことを意味している。暗黙のルールを受け入れたくない、創造力をもっと発揮したい、大きな自由をつかみ取りたいなどの不安定な思考が人間の遺伝子の中にずっと存在しているようだ。たとえ成熟して安定した社会の中でも、イノベーションを起こしたり、起業する人がおり、彼らは大きな集団を抜け出したいという理由で自分の個性にあったポジションにいることを選ぶ。
目の前にある日本の農村の津和野町には大都市から来た高学歴の若者も多く住んでいる。私は、彼らが実は「ルール厳守」というタイプではないことにふと気づいた。彼らは、日本社会全体の調和を取るようにする制度に反対というわけではなく、自分たちが「都会人」というポジションを無理やり押し付けられることに反対しているのだ。そこで、彼らは大都市というレールから抜け出し、農村にやって来て、農業に従事する、料理を作る、カフェを開く、文化イベントや音楽パーティーを行うなどの方法で、大きな空間の中で自分のポジションをはっきりさせ、自分なりのルールを作っているのだ。(編集YK)
「人民網日本語版」2017年1月16日
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