20世紀に2回の石油ショックを経験した日本は、徐々に経済のモデル転換期に足を踏み入れた。特に1985年のプラザ合意後、日本は「消費立国」を明確に国家戦略に組み込んだ。国内の生産コスト上昇などの影響により、多くの企業が相次いで海外に拠点を移し、新たな商品市場・サービス市場を絶えず切り開くと同時に、多様化した投資モデルや企業の合併買収(M&A)モデルを通じて、新しい協力パートナーを求めた。そこでは、世界的に有名な日本の多国籍企業も基本的にモデル転換を目指す企業の仲間に加わっていた。だがここ数年、ものづくりで世界的に評価され、成功したモデル転換で有名な日本の多国籍企業が海外で次々「撃沈」しており、ここから経済グローバル化の下での日本の多国籍企業の「モデル転換の痛み」がうかがえる。「文匯報」が伝えた。(文:陳子雷・上海対外経貿大学日本経済研究センター長)
まず1904年創業の東芝をみてみよう。80年代以降、東芝はモデル転換に成功し、海外に拠点を移して多様化した生産と経営を行い、多くの業績を上げてきた。だが21世紀になると、世界の原子力発電産業に手を出し、2006年には米原子炉メーカーのウェスティングハウス・エレクトリック(WH)を買収し、次世代原発技術を獲得して、世界の原発市場をさらに拡大しようとした。さらに15年にはWHを通じて米シカゴ・ブリッジ・アンド・アイアン・カンパニー(CB&I)の原発事業子会社を買収したが、この買収劇が東芝の「悪夢の始まり」になるとは当時は予想もしていなかった。東芝が発表したデータをみると、15年にこの買収が行われた後、WHの負債は減るどころか98億ドル(1ドルは約111.0円)にふくれあがった。これに足を引っ張られて、東芝の16年度連結業績は最終的な損失額が過去最高を記録。度重なる交渉や各方面への働きかけを経て、東芝は最終的にWHの米連邦破産法11条の適用をニューヨーク州連邦破産裁判所に申請したと発表した。この申請にともない、東芝は世界の原発事業から全面的に撤退することを決定。財務状況の改善と健全化をはかり、負債規模をコントロールして損失を減らすため、半導体メモリー事業を切り離して売却し、新たな融資枠を設定するなどの決定を行い、優良資源を集中させて、企業全体として製品の価値を高め、企業内部の再編に向けて十分な資金を調達しようとした。だが打撃を受けた東芝はなかなか立ち上がれず、短期的には復活は難しいとみられる。
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