日本サッカーに学べ 「ドーハの悲劇」後に歩んだ道=中国紙 (2)
中国メディアが見る日本 日本と同様、中国サッカーもこれまで「ドーハの悲劇」のような感傷的な物語を数多く体験してきた。中国サッカーが苦杯をなめた物語は「ドーハの悲劇」よりもさらに摩訶不思議で切ないものだ。ただ、悲劇を体験した後、そこから教訓を得ることも、達せられなかった目標のために努力することも、ほとんどないだけである。失敗しても、間もなくすると健忘症にかかったように、前回失敗した同じ道を再び歩み、何度も同じことを繰り返している。中国代表は3大会連続してアジア最終予選の進出に失敗したにもかかわらず、声をあげるどころか、沈黙し続けている。毎回の挫折は人々の涙を枯れさせ、感覚をまひさせた。
日本サッカー協会が8年前に「JFA 2005年宣言」を発表し、「男女共にサッカー日本代表がワールドカップで優勝する」と豪語したことを覚えている人は多いが、「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する。サッカーの普及に努め、スポーツをより身近にすることで、人々が幸せになれる環境を作り上げる・・・・・・」といった理念やビジョンを覚えている人は少ない。これは、サッカーが生活を変えることこそが、サッカーにかかわる人の最高の境地であることを意味している。
現在、中国のサッカー界も同じようなコンセプトを打ち出し、さまざまな広報イメージ大使を任命しているが、サッカーのためにサッカーを行うという目的性が強すぎる段階から抜け切れていない。このような功利主義の道を歩み続ければ、成功からはより一層遠くなるだろう。中国のサッカー界は、これまで何度も日本のサッカーを手本とすることを宣言している。しかし、日本のサッカーを学ぶことは、スローガンを掲げたり、視察から戻ってレポートするだけでなく、日本のサッカー界が「ドーハの悲劇」を経験した後に、いったい何をしてきたのかを詳細に研究するべきであり、見習うのはその後だ。(新京報体育評論員 趙宇)(編集MZ)
「人民網日本語版」2013年6月5日