相互理解で「信仰」の差異は乗り越えられる (2)
一方、風俗習慣もパブリック・ディプロマシーにおいて障害となり得る。風俗習慣は法律ではないものの、その影響は一層根深い。例えば、中国の人々も親孝行や勤勉であること、一生懸命働くこと、近所の人との良い関係を保つことなどを大切にするが、あまり外国人受けしない特殊な習慣もある。
さらに大きな障害になり得るのが宗教だ。多くの中国人が仏教を信じているが、自分の事を「仏教徒」と言う人は少ない。ある外国人の友人は、「天国を信じないなら良い振舞いをする必要はない。それに地獄を信じないなら悪いことをしてもこわくないということになる。それでいいのか」と言っていた。また、米国の神学家ルイス氏も「他の人が自分にどのように接するかで、自分のその人に対する接し方が決まる」と言っていた。私はその言葉に同感だ。中国にも孔子の「己の欲せざる所、人に施す勿かれ」という言葉がある。そう。中国人に信仰心がないのではなく、このような格言を一種の信仰と捉えているのだ。ただ、これを宗教とは結びつけず、文化として信仰しているのだ。
「宗教を信仰していれば、神様が見てくれているが、文化信仰は、誰が見ているのか」と言う人もいる。そのような質問に私は、「同僚や家族、隣人などたくさんの『神様』が、文化信仰に背いていないか見てくれている」と答えている。これらの「神」は、目に見え、握手もでき、より現実的だ。中国に宗教がないわけではなく、実際には一層多様化した宗教体系、文化、政治があるのだ。
パブリック・ディプロマシーを展開する際、往々にして信仰の差異が障害となるが、相互理解を深めるなら、この障害は乗り越えられるはずだ。(編集KN)
「人民網日本語版」2013年4月8日