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日本の公害対策を学べ 中国メディア代表団が訪日

中国メディアが見る日本

 2013年04月03日10:16
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現在の三重県、四日市の美しい夜景

 中国広東省の夕刊紙「羊城晩報」の記者は先月10日-17日、中国青年メディア関係者代表団の訪日活動に参加した。記者は滞在中、政府や市民など日本の社会全体が中国の大気汚染問題に極めて高い関心を寄せていることを実感した。「羊城晩報」が伝えた。

 今回の訪日活動では、東京大学先端科学技術センターの竹川暢之准教授の講座が特別に設けられ、日本の大気汚染と対策面での利害に関する説明に耳を傾けた。1960-70年代、高度成長を追い求めた日本は各地で深刻な大気汚染に見舞われ、大気汚染の痛みを実際に経験している。

 環境汚染により短期間に多くの発病者と死亡者が発生する事件を公害事件と呼ぶ。20世紀の世界環境「8大公害」事件(ベルギー・ミューズ渓谷の亜硫酸ガスなどの大気汚染事件、米国ロサンジェルスの光化学スモッグ事件、米国ペンシルヴァニア州ドノラの大気汚染事件、英国ロンドンのスモッグ事件、日本水俣病事件、日本四日市ぜん息事件、日本カネミ油症事件、日本富山のイタイイタイ病事件)のうち4件もの公害事件が日本で発生している。有名な四日市ぜん息は当時の深刻な大気汚染が引き起こした公害病だ。

 ■深刻な工業汚染 四日市ぜんそくが全国に蔓延

 第2次世界大戦終了後、日本は重化学工業を優先させる経済発展政策を推進し、既にある京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯、北九州工業地帯を中心として、太平洋ベルト地帯構想を基礎とする「新産業都市」プロジェクトの建設を全力で進め、雨後のたけのこのように次々と工場が誕生した。

 四日市は1955年に初の石油化学コンビナート施設が建設された後、8年間で3つの石油化学コンビナート施設が相次いで建設され、周囲には大小さまざまな化学工場が数多く建設された。

 それに伴って汚染問題が発生。石油製油と工業燃料油は大量の硫黄酸化物、炭化水素、窒素酸化物、浮遊粉じんなどの大気汚染物質を排出し、四日市は一年中、黄色いスモッグに覆われた。大気中の二酸化硫黄濃度は基準値の5、6倍を超え、スモッグは厚さ500メートルにも達した。工場付近は鼻を突くような異臭が流れ、住民は夏でも窓を開けることができなかった。

 1961年、四日市でぜんそくの発作を起こす人が多数発生した。1964年、連続3日間にわたり、スモッグが晴れず、ぜんそく患者の中で死亡する人が現れ始めた。1967年、苦痛に耐え切れなくなったぜんそく患者の自殺者が出る。1972年、四日市のぜんそく患者は817人に達し、死者が10人を超えた。大気汚染により呼吸器系疾患が引き起こされる公害病「四日市ぜんそく」はここから名付けられた。日本ではほぼすべての重要工業地帯で類似の状況が発生し、四日市ぜんそくは急速に全国に蔓延した。日本の環境庁のデータによると、1972年までの日本全国の四日市ぜん息の患者は総計6376人に上る。

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ネットユーザー   2014-01-1149.129.131.*
興味深い記事でした。地球規模でモノを考えれば、他人事ではありませんからね。