環境保護都市に生まれ変わった水俣市 (2)
現地当局は77年から13年間の時間と485億円(1円は約0.06元)の費用をかけて、水銀汚泥を含む海域を埋め立て、水俣湾の水質を少しずつ改善してきた。87年には、汚染海域の汚泥の水銀含有量は水俣病発生当時の0.04ppm-553ppmから0.06ppm-12ppmに下がった。さらに3年間の連続モニタリングを経て、水俣湾では漁業が復活。埋め立てられた汚染海域の近くには「水俣病資料館」が建設され、経済的利益のために環境を犠牲にしてはならないとの警告を発している。
同資料館の島田竜守副館長は、「水俣病が残した最大の教訓は、経済発展では環境を尊重しなければならないということだ」と話す。熊本県の蒲島郁夫知事は、政府は事故の初期段階で思い切った措置を取り、被害を最小限に食い止めなければならない。人々の命や健康は非常に大切だと話す。
水俣市民の話によると、水俣病はかつて長らく原因が不明であったことから、伝染病とみなされて患者は隔離され、家族も就職差別や結婚差別にあった。40年以上もの長い時間の中で、水俣市民は患者の認定資格、賠償のペース、漁業禁止の是非、チッソの去就などで利害や要求がぶつかりあい、さまざまな衝突を繰り返してきた。
現在、水俣市の地域社会は相互に信頼しあっており、そのことは「環境保護にはみんなが責任を負う」という意識の中に特に強く現れている。日本の大部分の地域ではゴミの分類は3種類だが、水俣市は24種類に細分化されている。収集日の様子をみると、収集場所には24個のコンテナがずらっと並び、ごみ袋を下げてやって来た市民は表示に従って次々にゴミを入れていく。前田一碩町長によると、ゴミはちゃんと捨てれば資源になる。しっかり分類されたゴミは一斉回収して現地の資源回収会社に買い取ってもらい、得られた資金は地域活動に利用されているという。(編集KS)
「人民網日本語版」2013年7月26日