坂東玉三郎は6歳の時に、小児麻痺を患い、後遺症のリハビリにと日本の伝統舞踊を習い始めた。子供の頃、祖父から度々京劇や梅蘭芳について聞き、家の壁には梅蘭芳の写真が貼られ、書斎には梅蘭芳に関する書籍や資料がたくさんあったという。
■飛会長によると、坂東玉三郎は20歳の時に、養父である十四代目・守田勘弥に、「今後、どのような道を歩みたいのか?」と聞かれ、「梅蘭芳のような役者になりたい」と答えたという。その後、歌舞伎役者として有名になり、日本の演劇界で人気を高めるにつれ、彼のその願いはさらに強くなっていった。そのため、当時、人気絶頂期だった1986年、北京に足を運んで、梅蘭芳の息子でやはり女形の梅葆玖を訪ね、京劇の「貴妃酔酒」の表現方法や動きを学び、「玄宗と楊貴妃」という歌舞伎作品を作った。
2007年、中国対外文化交流協会のサポートと企画の下、当時57歳だった坂東玉三郎は、崑曲「牡丹亭」の歌舞伎作品を作る計画を立てていた。しかし、江蘇省蘇州で、汪世瑜と張継青が出演する「牡丹亭」を見た後、張継青が演じる杜麗娘を一目見て魅了され、歌舞伎作品に変えるのではなく、崑曲の「牡丹亭」を学ぶことにした。
2008年3月、坂東玉三郎は蘇州崑劇院と提携して、中日版崑曲「牡丹亭」の上演を、京都南座劇場で行った。坂東玉三郎は杜麗娘を演じ、その自然な台詞、表現方法、流れるような仕草で観客を魅了し、好評を博した。その後、同作品は北京、蘇州、上海でも上演され、満員御礼の大人気となり、中日戲劇アート交流の新たな章の幕開けとなった。
2010年、上海国際博覧会が開催された際、坂東玉三郎、梅葆玖、シテ方観世流能楽師・関根祥六は、上海国際芸術祭で「楊貴妃」で共演。中国の京劇、日本の歌舞伎、能楽のコラボレーションを披露し、世界に向けてアジアの戲劇の独特の魅力をPRした。(編集KN)
「人民網日本語版」2019年5月8日