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最近、「高給だがやりがいのない仕事を選ぶか?」という話題が、ネットで多くの議論を巻き起こしている。そもそものきっかけはこうだ。あるネットユーザーがSNSで、「自分は外資系の小さな企業で補佐をしている。月収は1万8千元(1元は約20.1円)だが、毎日の仕事は社長のための会議の予約、食事の予約、郵便物の処理くらいで、このまま続けていると自分がじきに『だめ』になりそうな気がする」と発信した。
すると「仕事」と「人生の価値」の議論が起きた。「この方は一種の見せびらかしだね。こんな仕事なかなか手に入らないよ」とからかう人もいれば、「給料のことばかり考えてはだめ、自分の将来のキャリアを冷静に分析した方がいい」とアドバイスする人もいた。
最初は仕事に対するネットユーザーの「ツッコみ」に過ぎなかったものが、いつの間にか多くの働く若者による仕事の価値についての議論へと発展した。実際、高給がもたらす感覚的な刺激から距離を置けば、この話題をめぐって人々が追求しているのは、「食べるために働くこと」と「人生の価値を実現すること」との間にある乖離だ。
こうした議論は価値のない空論ではなく、反対に、この話題自体が働く若者が自分の今の状態や仕事の現実を「考え直す」ことだ。高給とやりがいが両立できない時、あなたならパンを選ぶだろうか。それとも夢を選ぶだろうか。
こうした選択が簡単ではないのは、往々にしてその結果が「非対称」だからだ。つまり、なぜあれほどがんばったのに、そこそこの給料がもらえないのか、なぜ仕事の内容と期待とがこんなに一致しないのか。
しかし現実の中でこうした「非対称」は珍しいものではなく、「やりがいがあるかどうか」は偽の命題であるというのが普通だ。月給1万8千元の補佐の仕事は、会議や食事の手配など一見些末なことばかりだが、だからと言って「雑用」と決めつけることはできない。「やりがいがあるかどうか」は考え方の問題に過ぎない。
月収1万8千元の安心感に満足せず、より高いレベルのやりがいを求めることは、働く若者が主体的に突き進もうとする1つの姿だ。——現実の生活に立ち返れば、若者には私たちが思うよりももっと積極的でもっと努力しているという別の一面もある。
仕事に絶対的な善悪はなく、選択にもはっきりとした適不適はない。そのため、「高給だがやりがいのない仕事」という論争が明確な答えを導き出すことはおそらく不可能だ。もちろん、若者は誰かに間に合わせの答えを出してもらおうとしていないだろう。(編集KS)
「人民網日本語版」2022年6月10日