■刺激性を原則として芸術を消費すれば、精神的な空虚感が強まる
「もともと生活が苦しいのに、芸術性や純潔性を持ち続けるなんて、疲れすぎないか?テレビや広告、ドラマ・映画作品は見る人の身心をリラックスさせたり、気持ちを楽しくさせたりするもの。だから歴史のギャグ・パロディ化は無罪だし、伝統を解体することは合理的だ!」。これは、現在の多くの青少年たちを代表する主流的な考え方だ。芸術形態の伝統文化の解体に対して、青少年たちは非常に肯定的に見ている。
この考え方は一見理にかなっているようにも思えるが、よく考えてみると、全く道理にかなっていない。なぜなら、もし芸術の消費が鑑賞性を原則とするのなら、人の内心を豊かにさせ、精神的に成長させるが、刺激性を原則として芸術を消費すれば、将来さらなる精神的な空虚感や身心の疲労をもたらすことになる。
中国海洋大学の林少華教授は海外生活の経験からさらにこの考え方を支持している。「西洋人は改編されていない原作を読むことを通して文化を継承している」と林教授は指摘する。フランスには名作古典の改編を管理する専門機構があり、誰も「レ・ミゼラブル」のような古典の名作をパロディ化しようなんてことは考えない。米国の大学では、詩人ホメーロスの作とされる長編叙事詩「オデュッセイア」や、古代ギリシアの哲学者プラトンの「国家」、ヒッポのアウグスティヌス「告白」などが、大学過程の選択必修科目に組み込まれている。
自分たちの国家の古典や伝統を保持するだけの敬虔さや敬意を持っている西洋人に対し、我々はなぜよりにもよって中途半端な歴史のパロディやギャグに夢中になっているのだろうか?英国の生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリーは100年程前にすでにこのように予言している。「もし文化が墜落したら、文化は遅かれ早かれ消滅するだろう」と。また、米国のメディア理論家、二―ル・ポストマンは著書「Amusing Ourselves to Death」でより明確に指摘している。「娯楽が拡大しているが、我々は死ぬまで楽しみ続けるつもりだろうか?」。
伝統文化を尊重すること。それは、読んでよくわからなかったり、内容がうまく伝わってこなかったとしても、それを安易に壊したり、バラバラに解体したりしてはならないということだ。 まさしく作家のフランツ・カフカが我々に忠告しているように。「お前が家を出て行く必要はない。じっとお前のデスクに座って、耳を澄ますがいい。耳を澄ますこともない、ただ待つがいい。待つこともない、すっかり黙って、ひとりでいるがいい。お前の前に世界は真実の姿を現し、仮面を脱ぐだろう。世界はそうするほかないのだ。恍惚として、世界はお前の前で身をくねらすことだろう」。(「夢・アフォリズム・詩」フランツ・カフカ、吉田仙太郎編訳、平凡社ライブラリー、1996)
「人民網日本語版」2013年2月21日