ただ騒ぎたいだけなのか?それとも何かを表現しようとしているのか?物語を再構築しようとしているのか?それとも常識を覆したいだけなのか?ますます多くの人が低俗なジョークやあり得ないような突飛な物語、享楽的な娯楽に夢中になり、伝統文化が娯楽の喧騒の中に埋没していく中、我々は世の中に向けてこのように問いかけざるを得ない。「娯楽にのみ込まれた」文化的価値観によって我々が失うものは何なのか?――人民日報が伝えた。
■低俗なパロディや歴史を歪曲した突飛な物語
- 歴史の真実は灰のように舞って消えさるだろう
「もし唐朝を舞台にしたやくざものを撮るなら、当然、男性主人公は李白で決まりでしょう。李白は、溢れんばかりの才気のため異星人と疑われた古代の詩人であり、ひどい酒好きで、妖術を使うプロの道士。また、中国で2番目の腕前を持つ剣客で、喧嘩ばかりするチンピラ---なんだ、結局李白は、詩をかける豊小宝(香港の人気作家・金庸による武侠小説「鹿鼎記」の主人公)なだけじゃないか」。
このような文章は、中国の歴史を敬い、宝として考えている多くの学者を心から嘆かせるものだ。しかしながら、現在の中国の市場にはこのような類の書籍が溢れている。さまざまな歴史の脚色やパロディ、ギャグが満載された内容が読者からの人気を集め、ベストセラーランキングに名を連ねるだけでなく、こういった書籍に対して、「独特の歴史観が非常に興味深い」という感嘆の声をあげる人までいる。
確かに、ひたすら真面目な歴史書を読んでいると、言葉が難解なために本を読み続けることが苦痛になることがある。しかし、ファストフードのような簡単な注釈による歴史小説は我々の眼を覆い隠し、歴史に対する理性的な推察力だけでなく、さらには正確な価値観に対する判断の目を曇らせる。このほかに学者が憂慮しているのは、それぞれの作家が歴史をまるで若い娘のように飾り立て、勝手に脚色してしまうことで、真実が灰のように宙に舞って消えてしまうということだ。
「五色は人の目をして盲なら令む。五音は人の耳をして聾なら令む」のごとく、あらゆる伝統文化が消費され、あらゆる信仰が娯楽にのみ込まれる。にぎやかで豪華きらびやかな文芸の光景が映し出すのは、実のところ普遍的な焦燥感と空虚感である。最終的に消えて無くなるのは、厳粛な伝統文化や人々の豊かな魂への追求だ。