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中国明朝と関係の深い「沖縄久米村」取材記

 沖縄と中国は、古い時代から深い関わりがある。沖縄県の県庁所在地・那覇市の東海岸に松山公園という公園がある。公園の向かい側には、中国福建省福州市が建設を支援した中国庭園「福州園」がある。両園を隔てる道路脇に、「久米村発祥の地」と刻まれた石碑がある。 この石碑は、今から約600年前、中国明朝時代に、福建から沖縄に移り住んだ人々を記念するものだ。移住者たちは、「久米三十六姓」と呼ばれている(36が具体的な数を示しているのか、単に数が多いことを示しているのかには議論がある)。当時の琉球(現在の沖縄)において、先端文明をもった移住者である「久米三十六姓」の政治的・経済的な地位は極めて高く、その末裔は今もなお、沖縄で大きな影響力を持っている。現知事の仲井眞弘氏は、「久米三十六姓(蔡氏)」の子孫であることは広く知られている。沖縄文化の中に中国的な要素が色濃いという事実は、「久米三十六姓」と切っても切り離せない。環球時報が報じた。

 ■久米村、日清戦争後に凋落

 中国明朝洪武の時代、福建省の職能人が、皇帝の命を受け、当時の琉球に渡り、那覇港に近い浮島に久米村を作り、定住した。彼らは、明朝と琉球国との間の朝貢(外国の使者が中国の皇帝に貢物を差し出すこと)、冊封(中国の皇帝が冊書を媒介として外国と宗属関係を取り結ぶこと)、貿易、外交など各種事務を担当した。その後、長期間にわたり、福建人は海を越え琉球に渡り続けた。当初、彼らの住む「久米村」は、「唐営」または「唐栄」と呼ばれ、城壁で囲われていた。久米村は誕生後、琉球王国の対外貿易の拠点・要塞となり、琉球内においては、当時の先進文化・生産技能を普及する中心地となった。

 1609年に薩摩藩が琉球に侵入した時、三司官の1人だった久米村出身の鄭迥(ていどう)は、薩摩藩の侵入に強く抵抗した。1609年から1879年まで、琉球は日本に支配された。久米村の住民の多くが清朝側を支持したことから、親清派は久米村を拠点に日本による併合に反対すると同時に、琉球王朝の復活に協力するよう、清朝に願い出た。しかし、「甲午戦争」(日本名・日清戦争)で清朝が敗れ、清朝を支持していた久米村住民の多くは、清に亡命するという道を選んだ。これを機に、久米村の斜陽が始まった。久米村には今、寂れ荒れ果てた人家だけが残っている。

 ■「久米三十六姓」の子孫は漢族姓

 「久米三十六姓」の子孫は軒並み、琉球人の姓名を名乗っているが、同時に、梁、鄭、金、蔡、毛、陳、林、曾、高、呉、李、阮など漢族の姓氏も持っている。最も多い姓氏は「阮」と「梁」だ。「久米崇聖会」は、「久米三十六姓」の最高機関であり、その下に各姓氏の組織がある。「不染塵(俗世間に染まらない)」が、「久米三十六姓」の合言葉だ。那覇祭、那覇大綱引き、那覇ハーリー(ドラゴンボート大会)などの大型文化イベントがあるたびに、彼らは「姓氏」ごとにチームを組み参加する。また、かまどの神を祀る行事など「久米三十六姓」が受け継いできた風習は、現地の習慣として現存している。

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