オフショア金融センター・東京の浮沈を見る(前編)
1980年代、日本は世界2位の経済体であった。当時の東京にはキャッシュが集まり、資本輸出が加速し、外国の金融機関がこぞって東京に地区本部を設立した。しかし東京は最終的に、人々の期待に答えられなかった。東京は世界金融センターとなる機会を失したが、これは持続不可能な経済、政策、商業全体および政府の構造によるものだ。これらの要因は、東京が真の意味で世界的な地位を獲得することを妨げた。専門家は、上海は東京金融センターの浮き沈みを参考にできるとしている。国際金融報は、東京で20数年間生活・勤務している復旦大学アジア経済研究センターの袁堂軍主任、上海交通大学現代金融研究センター主任、上海国際金融研究センター理事の潘英麗理事に東京と金融センターに関するインタビューを行った。
■東京の変化、バブル崩壊後の失われた10年
袁主任:近年、実生活の中でも頻繁な銀行再編を感じることができる。例えば私の所持している銀行カードが数年内に名称を数回変更したり、手数料にも変化が生じている。ライブドアショックのような金融業界の問題もメディアに頻繁に取り上げられている。外国人が日本企業の管理層に加わる機会も、これを受け増加している。
-----日本経済の近年の浮き沈みにより、東京金融センターにはどのような変化が生じているか。
袁主任:私は東京で、日本金融システムのモデルチェンジ・調整の重要な時期を過ごし、東京国際金融センターの建設に関する議論が盛り上がっていた時期(計2回)を過ごした。日本の実際のGDP成長率は、1980年代に平均4%、1990年代に1−2%となり、2000年以降は1%未満となった。成長率の長期的な低迷の裏側には、深刻な構造上の問題がある。特に1990年代以降、経済のグローバル化や日本の少子高齢化という2大環境変化が生じ、製造業の空洞化が加速し、日本の実体経済を中心とする伝統的な金融システムが課題に直面した。
日本の金融が最も得意とするのは、製造メーカーの生産効率向上によるコスト削減を支援し、収益率を高めることだ。しかし1990年以降、新興国の発展と世界市場への進出により、コスト削減で引き上げられる収益が減少を続けた。そのため価値創造型企業の発展の重要性が高まり、ベンチャーキャピタルに対する需要も膨らんだ。ところが日本の金融システムは、メインバンク制および不動産担保ローンという伝統的な手法を、スムーズに変化させることができなかった。