2013年12月27日  
 

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人民網日本語版

外国人から見た襄陽とは?

 2013年12月26日16:21
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 マルコ・ポーロの「東方見聞録」は世界史において、西洋人に東洋を初めて知らしめた作品だ。マルコ・ポーロは欧州に向かい、神秘的な中国と東洋全体の門を開いた。西洋人が中国に襄陽と呼ばれる地があることを知るようになったのも、東方見聞録がきっかけだ。

 東方見聞録を見ると、マルコ・ポーロが襄陽に非常に詳しいことが分かる。また南宋咸淳4年(西暦1268年)7月から咸淳9年(西暦1273年)の1月に渡る、南宋と元の「襄樊の戦い」の間に、マルコ・ポーロが襄陽を訪れていたことは間違いない。東方見聞録は「襄陽府」の中で襄樊の戦いを記述しており、第二巻の「蛮子省」に収められている。襄陽府の1000字弱の内容のうち、マルコ・ポーロは現地の富豪・庶民と繁栄を記した。しかしそれよりも多くのページが割かれたのは、襄陽の戦いに関する詳細な内容だ。マルコ・ポーロは「襄陽府は蛮子省の大都市で、司法上12の町を管轄している」、「大規模な商業の重要都市」、「生糸の生産量が多く、金の糸で織り成される最も美しい絹織物も、この地で生産される。あらゆる種類の獲物も豊富だ。一つの大都市が持つべきものは、この地で十分に自給されているため、高い抵抗力を持つ。3年に渡る城攻めにも耐え、大汗(フビライ・ハーンのこと)が蛮子省を占領してからも、投降しようとしなかった」と記述し、当時の襄陽城を次のように描写した。「この都市は三方を水に囲まれており、北側のみが陸地となっている。北側からでなければ、軍隊は城壁に近づくことができない。これは城攻めの難題だ」

 マルコ・ポーロはまた、無敵の元軍が全国を征服した当時、多くの都市が自ら投降した中、襄陽だけが根強い抵抗を続けていたため、フビライの心中に「悲しみ」が満ちていたと記述した。

 米ハーバード大学の有名な漢学者のStephen Owen氏は、著書「追憶」の羊コ(コ=示+古、晋の武将)に関する文章の中で、「この光景の中で最も注目を集めやすいのは、峴山の墜涙碑だ。この石碑は襄陽の一般人が3世紀中頃に、父母のように敬っていた羊コのために立てたものだ。羊コの名前は峴山から切り離すことができず、峴山全体が羊コの名が刻まれた巨大な石碑となった」と指摘した。

 日本人は蘇州の寒山寺で、夜半の鐘の音を聞くことを好む。これは寒山寺の詩碑に刻まれている、唐の張継(襄陽出身)の「楓橋夜泊」による。

 韓国には漢江と呼ばれる川、襄陽と呼ばれる郡がある。

 唐の時代に、襄陽で生産された顔料が中東諸国に輸出されていた。この原料は、「襄様」と呼ばれている。

 ロシアは唐の時代に、襄陽で生産された「荊襄茶」を輸入していた。

 「人民網日本語版」2013年12月

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