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日本も歩んだ「模倣」の道 日本近代工業の歩み

人民網日本語版 2018年08月09日10:46

中国はこれまで、西洋諸国から「海賊版大国」、「模倣品大国」とのレッテルを貼られてきた。しかし、実際には、近代世界史全体を見てみると、「模倣品」製造は、新興工業国が、先進国に追いつき、追い抜くための「必殺技」となっており、今や製造業大国となっている日本でさえ「模倣品大国」だった「黒い歴史」がある。日本の経験から、「グレーゾーン」を歩んで、海賊版や模倣品を製造していると、短期的には利益を出すことができても、長い目で見ればそれには限界があることが分かる。「模倣品」を作る現状に満足せずに、それをスタート地点として経験を積み、イノベーションに取り組むことこそが、「模倣品大国」から、「製造業大国・強国」へと進歩する道であると言えるだろう。環球時報が報じた。

「模倣に明け暮れた戦前戦後」

近代、各国が工業化と現代商業社会に次々と歩みを進める中、先んじた者が後から追いついた者を「模倣品」製造者と非難することはありふれた歴史における一種の現象であったと言える。例えば、18世紀末から19世紀中期にかけて、工業革命時代へと真っ先に歩みを進めた英国の人々は、ドイツ人が英国の機器や商品を模倣していると叱責し、「ドイツ製」が「模倣品」の代名詞になっていた時期があったほどだ。しかし、その後ドイツは大規模な工業化を推し進め、瞬く間に「模倣品」という汚名を返上した。第二次世界大戦前には、ドイツは、世界の全ての工業技術関連の特許をほぼ独占するまでになっていた。また19世紀後期、明治維新を経た日本の工業は、西洋諸国と比べると依然として立ち遅れていた。短期間で列強に追いつくため、日本はまさに「物から制度に至るまで」の一切において欧米を模倣することで、たちまち「模倣品大国」という名を手に入れることとなった。日本商業史の研究者らも、20世紀初頭から第二次世界大戦前まで、日本は「模倣に明け暮れている」、「知的財産権を無視している」と世界から非難されていたと認めている。もちろん、当時はまだ知的財産権をめぐる世界統一基準はまだなく、それがさらに日本の大々的な「模倣」に拍車をかけ、その責任を問われることもなかった。

「欧米に学べ」というスローガンの下、20世紀初頭、日本企業は次々と欧米企業をターゲットに研究した。例えば、東芝は当時、視察団を米国に派遣し、米国ゼネラル・エレクトリックとの提携を成し遂げた。そして、東芝は1930年ごろには日本で初となる冷蔵庫や掃除機、洗濯機といった家電商品を次々生産した。こうした家電商品は、その外観から内蔵されている機能までゼネラル・エレクトリック製のものとそっくりで、商標が貼られている位置まで一緒だったほどだ。当時、東芝の技術顧問を務めていたゼネラル・エレクトリックの米国人技術者からは、「あなたたちには自主設計能力がない」と指摘されたという。こうして東芝は、「日本版ゼネラル・エレクトリック」の道を歩むようになった。日本の近代の自動車工業も欧洲の模倣から始まっている。1914年、三菱重工が製造した日本初の量産型乗用車『三菱A型』は、イタリアのフィアットA3-3の模倣品だった。精密機械の面でも、日本企業は、当時の工業技術最強国ドイツに焦点を絞り、第一次世界大戦後に設立されたニコンは商品やブランドなどドイツカール・ツァイスを「コピー」したといっても過言ではない。


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