谷崎潤一郎の中国との縁とその文学作品 (2)

人民網日本語版 2020年06月09日10:21

中国の旅をきっかけに中国文化の美しさに魅了される

中国を初めて旅した後、執筆した作品の中で、谷崎は中国を訪問した一番の理由は「演劇を見るため」であることを説明し、「中国に行けたら、できるだけたくさんの劇場を巡りたいと、初めから思っていた」と綴っている。瀋陽に到着後、谷崎は矢も盾もたまらず劇場に連れて行ってほしいと友人に頼んだ。友人は北京に行ってからにすればと勧めたが、それでも谷崎を平康里の「中華茶園」という劇場に連れて行った。北京に到着後も、何度も演劇を見に行きたいと頼み、友人の説明や通訳を通して、少しずつ中国の演劇を自分なりに理解するようになって、音楽のリズムに魅了されていった。「西洋の音楽と違い、中国の音楽は、日本人と共通の感情を表現している。悲しみを表現している部分を聞くと、悲しい気持ちにさせられ、勇敢さを表現している部分を聞くと、勇気が湧いてくる」。谷崎は、京劇の名優である梅蘭芳や尚小雲、王鳳卿などの演技の特徴も評価している。長江沿いの都市を訪問した後、谷崎は蘇州や杭州、上海で流行している新劇も鑑賞した。

旅行中、谷崎は秦淮の夜や中国料理を満喫した。帰国後、谷崎は「蘇州日記」、「中国旅行」、「秦淮の夜」、「西湖の月」、「蘇東坡」、「鶴唳」など、中国の旅に関する作品を次々に発表した。

2回目の中国の旅で、谷崎は「中国旅行」で綴っていた「次に行く時は春に行きたい」という願いをかなえた。そして、この旅はそのほとんどの時間を上海で過ごした。内山書店の経営者・内山完造の紹介もあり、谷崎は郭沫若などを始めとする上海の新文化、新文学界の文化人と面会し交流した。そして、帰国後、旅行で見聞きしたことや収穫を記録した「上海見聞録」や「上海交遊記」を発表し、中日の作家の友好交流に関する貴重な資料となった。その時から、谷崎は中国の作家と常に良好な関係を保ち続けた。1927年6月、中国の劇作家・田漢が日本に視察に行った際、関西で谷崎の歓迎と厚いもてなしを受けた。1956年、劇作家・欧陽予倩が中国京劇団を引き連れて日本を訪問した際には、谷崎はわざわざ箱根まで足を運び、友情を深めた。その時、欧陽が谷崎に送った長詩「欧陽予倩君の長詩」は、額に入れてその住居の雪後庵の客間に飾られ、中日文化交流の象徴となった。

谷崎は、中国に関するたくさんの文学作品やエッセイを手掛け、中国をテーマに作品を生み出す情熱は当時の日本の文壇に大きな影響を与えた。例えば、芥川龍之介は「秦淮の夜」に啓発を受けて、南京を背景にした短編小説を書き、佐藤春夫も谷崎の勧めで「李太白」を発表した。さらに、多くの文化人が谷崎の薦めで、中国の旅に出かけた。

谷崎は中国に関する作品の中で、「現在、私たち日本人は、西欧の文化をほぼ完全に受け入れ、同化されたように見えるが、普通の人が想像しているよりも、中国の要素が依然として私たちの血の中にしっかりと根付いていることには、本当に驚かされる。最近、僕はそれを特に強く感じる。以前、多くの人が東洋の芸術は既に時代遅れになってしまったと思い、それに目を向けることはせず、西欧の文化、文明に憧れ、心酔してきたが、一定の段階まで来ると、また、日本の様式に戻り、最終的には中国の様式へと向かって行く」と書いている。(編集KN)

「人民網日本語版」2020年6月9日

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