日本『留学生新聞』創刊者の趙海成さんを訪ねる (2)
■留学生活:税関の役人が日本でウェイターに
記者:日本に留学したのはいつですか? 日本に対する印象はいかがでしたか?
趙海成:1978年に大学入試制度が再開されました。私は当時、すでに工場に8年勤務していたのですが、日本語が少しできるという長所を生かして、北京対外貿易学院(現在の経済貿易大学)の日本語学科に入学しました。卒業後は、北京首都空港の税関部門に配属されました。「日本に行ってみたい」という考えはいつも私の頭にありました。1985年、日本にいる親戚を通して日本の大学と連絡を取り、ついに日本大学芸術学部の大学院生となったのです。
子どもの頃の記憶と同じで、日本に着いたばかりの頃から、日本では何もかもがすばらしいと思いました。時給700円のアルバイトをして給料を得た時は、日本ではやる気があれば見返りが得られるのだと感心しました。当時中国では自転車一台買うお金を貯めるのに一月はかかったものですが、日本では一日でそれができてしまった。また日本はどこも清潔でした。環境もいいし、製品も魅力的。日本人も親切でした。日本に住む中国人が少なかったことも原因でしょう。当時の日本人は皆、中国人学生に友好的で、アパートを探すのも、学校に行くのにも親切にしてくれました。それで日本にもっといたいと思うようになったのです。
記者:日本の文化や日本人との摩擦はありませんでしたか?
趙海成:私は日本語を学んではいましたが、レストランのアルバイトでの会話には慣れていませんでした。アルバイトを始めたばかりの頃に、これが原因でトラブルになったことがあります。ある時、お客さんが持ち帰るはずだった料理を誤って捨ててしまい、店長にひどく叱られたのです。当時の私は合点がいきませんでした。税関の役人だった私は、大きな顔をするのに慣れて、怒られたこともなかったのです。その夜すぐに、店長にやめると伝えました。今思うと、あれは私が悪かったと思いますが、当時は受け入れることができませんでした。
記者:日本に行って、日本と日本人への印象は変わりましたか?
趙海成:日本に行く前から、私は日本人に対して好い印象を抱いていました。子どもの頃の日本人の友だちやその両親、大学の時に知り合った日本企業の北京駐在代表を通じて、日本人が、中国文化を日本文化の由来と考え、中国文化を尊重していることを知っていたからです。日本では多くの日本の友人を作りましたが、気構えが要らず、真面目で人助けが好きな人たちばかりでした。もちろん日本人みんながそうとは限りませんが、私はいつもそんないい人に会ってきました。ビザの申請や保証人探し、各種の手続きなどでお世話になった日本人は皆、熱心に私を助けてくれました。中国人留学生を助けてくれる日本人は少なくありません。年齢の高い日本人は特にそうです。戦争への反省からかもしれませんが、中国人を助けよう、いいことをしようという気持ちが伝わってきます。こうした日本人は実に多いのです。