中日の学者「カイロ宣言は日本が歴史に向き合う出発点」
1943年末のカイロ会談開催および「カイロ宣言」発表は第2次大戦時における一里塚的意義を持つ出来事だが、日本国内には様々な理由からカイロ宣言を極力軽視し、さらには有効性を疑問視する動きがある。環球時報は中日の学者4人を招いてカイロ宣言の意義について話を聞いた。日本の田中宏・一橋大学名誉教授は、カイロ宣言は日本が過去について考え、未来に向かううえでの重要な出発点であるべきとの考えを示した。環球時報が伝えた。
■カイロ宣言は戦後の東アジア秩序の礎
環球時報:12月1日はカイロ宣言発表記念日だ。70年前に中米英の合意したこの協定の重大な意義をどう理解すべきか?
凌星光(日本福井県立大学名誉教授):1943年12月1日に中米英がカイロ宣言を発表した時、日本軍国主義はまだ力があったため、これを放置して取り合わない姿勢を取った。1945年にポツダム宣言が発表されると、日本統治層内部で受諾派と拒絶派の意見対立が生じた。最終的に天皇が無条件降伏を決定した。ポツダム宣言第8項の「カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク」によって、日本人はようやくカイロ宣言のことを知った。戦後日本の平和憲法の源はカイロ宣言とポツダム宣言だと言える。
田中宏(日本一橋大学名誉教授):1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、長い戦争についに休止符が打たれた。ポツダム宣言第8項が「カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク」と定めていることに鑑みて、ポツダム宣言とカイロ宣言は一体的なものだ。ポツダム宣言によって日本は台湾占領後の侵略を認め、清算することを要求された。したがって日本の侵略戦争は1931年から1945年までの戦争にとどまらず、甲午戦争(日清戦争)以来の「50年戦争」なのだ。このためカイロ宣言は日本が過去の侵略の歴史について考え、清算するうえでの重要な文書だ。
浅井基文(元日本外務省国際協定課長):カイロ宣言は日中戦争が第2次大戦の不可欠の一部であり、中国が東アジアを中心とする国際政治の参画者であることを米英両国が初めて公に認めた文書として、第2次大戦後の東アジアの国際政治の基調を固めた。カイロ宣言は大西洋憲章(1941年)とヤルタ協定(1945年)およびポツダム宣言(1945年)との橋渡しとしての役割を果たし、これら3文書と共に今日の東アジアの国際秩序の基礎を築いた。この点から見て、カイロ宣言には今日も重要な意義がある。
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