中国外交部(外務省)の南ビルの「藍庁」。一つの演壇と300脚の椅子が並べられたこのホールでは、平日の午後3時になると、報道官が演壇に立ち、国内外の記者の質問に答え始める。この情景は中国ですでに30年続けられてきた。「環球時報」が伝えた。
外交部は12日夜、北京大都美術館で「報道官制度30周年・中国駐在外国人記者新年招待会」を開催した。会場には歴代報道官の写真や経歴データが展示され、外交部長の王毅による挨拶の言葉「三十而立」(三十にして立つ)も飾られた。中国で長年の報道経験のある米国の記者は、報道官の写真を指しながら、「1994年に中国に来てから報道官とは親しくしてきた。会見場では舞台のあちらとこちらにいるが、個人的な交流で友人になった」と語った。同日夜は、外交部の元報道官である斉懐遠や李肇星、段津、王振宇、沈国放、李建英、孫玉璽などの各氏も出席した。これらの人々は制度設立から20年以内に報道官を務めた人ばかりで、一番若い人もすでに61歳となっている。李肇星(73歳)が斉懐遠(83歳)を支える姿も見られた。
30年前の3月1日、当時の外交部新聞司の斉懐遠司長は北京建国門近くの国際クラブで記者会見を開き、「中国外交部が即日から報道官制度を設立する」ことを宣言した。外交部は国家部門で初めて、報道官を設け、定期的に記者会見を開く部門となった。
「話は(1982年の)3月24日から始まる」と、報道官から外交部長を務めた銭其琛氏は著書の『外交十記』で書いている。この日、ソ連の指導者であるプレジネフがウズベキスタンの首都タシュケントで長時間の講話を発表した。中国に対する攻撃を多く含ませながらも、中国が社会主義国家であることを明確に認め、台湾に対して中国が主権を持つことを強調し、対中関係の改善を求め、協議を提案するものだった。鄧小平はソ連から伝わってきた情報を注視し、「外交部に電話をし、すぐに反応するように指示した」と言う。26日、当時の新聞司の司長を務めていた銭其琛氏は、外交部の旧メインビルのエントランスホールで7、80人の記者に囲まれ、有名な「3言」の声明を行った。「我々は3月24日にソ連のプレジネフ主席がタシュケントで発表した中ソ関係に関する講話を注視している――(後略)」。この声明は国際社会の関心を幅広く集め、報道官制度を設立するきっかけとなった。
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