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中日友好の証である人民大学の39本の桜の木にまつわる物語

人民網日本語版 2017年04月18日09:14

今年は中日国交正常化45周年の節目の年。両国の友好関係発展の歴史を振り返ると、そこにはこれまでの政治家たちの積極的な努力や、両国の民間の有識者の大きなサポートがある。中国人民大学の李大忠教授が最近、人民網に寄稿し、桜の木に関するある感動的な物語を紹介してくれた。

以下はその寄稿の内容。

毎年、当校の桜が満開になる春が訪れると、私は必ず花見をし、1980年代に教え子だったある日本人学生を思い出す。彼の名前は末次茂樹さんで、当校に桜の木39本を贈呈してくれた。それら桜の木には感動的な物語がある。

日本が中国を侵略していた時、末次節雄さんという日本人が中国の東北地方の鉄道関係の会社で働いていた。彼は旧日本軍が中国の庶民を殺害するという残虐な悪行を目の当たりにし、『自分の子供には必ず両国国民の架け橋にならせよう』と、心の中で決意した。1952年、彼の息子・末次茂樹さんが生まれた。茂樹さんは少年時代から、父親の決意を心に刻み、早稲田大学の政治経済学部で学んでいる時に、中国や中国の国民についての理解をより深めるために、選択科目で2年間中国語を学んだ。茂樹さんは1980年代初めに当校に留学し、私が担当している「誤文分析」の授業も受けた。彼はおとなしい性格であるものの、授業になると、いつも積極的に質問したり、発言したりしていたため、中国語の上達はとても速かった。その翌年には優秀な成績を収めて帰国し、仕事に就いた。その後、北京に派遣され、日本航空の在中国事務所の首席代表になり、中日両国の交流における本当の意味での「架け橋」になるという夢をかなえた。

ちょうど働き盛りだった茂樹さんは一生懸命仕事に打ち込んだ。ところが、悲しいことに、39歳だった91年に大きな病気になり、若くして亡くなってしまった。茂樹さんは亡くなる前に、父親の節雄さんに、「日本と中国両国の国民の交流のために力を注ぎ続けることはできないが、中国で39本の桜の木を買って、中国人民大学の校庭に植えてほしい。僕は39歳までしか生きられなかったが、39本の桜の木や毎年咲くその花は両国の国民の友好が永遠に続いてほしいという僕の願いを表している」との遺言を伝えた。


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