2013年12月31日  
 

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襄陽の歴史文化 (2)

 2013年12月31日16:24
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 ■三国文化の源流

 後漢から魏晋に至るまでの約100年間、激しい勢力争いが繰り広げられた三国時代において、襄陽は人材の宝庫、文化の宝庫、精神の宝庫と謳われた。劉備が、「三顧茅廬(三顧の礼)」を以って諸葛亮・孔明を迎え、その諸葛亮・孔明が劉備に対し「隆中对(天下三分の計)」を説いた三国志屈指の名シーンの舞台である襄陽は、魏・蜀・呉の三国が天下を3分し、互いに抗争した三国時代形成の原点となった。晋の武将、羊祜(221年 - 278年)が襄陽を守り、晋(西晋)の政治家・武将の杜預(222年-284年)が呉を破った戦いが象徴するように、襄陽は晋が呉を滅ぼし、中国を統一した地でもある。後漢末期、北方は戦乱となり、後漢の政治家・劉表(142年-208年)は荆州に派遣され、その地を割拠した後、臣民を愛し、兵を養い、領土を戦乱から遠ざける政策を実践した。それによって襄陽は経済が発展、社会も安定し、乱世の時代において、穏やかで平和な、まるでオアシスのような地となったため、何千人という人々が続々と襄陽にやってきた。その中には、諸葛亮・孔明や司馬徽、龐大公、龐統、徐庶、崔州平ら大勢の著名な戦略家も含まれていたほか、儒者の宋忠、文学者の王粲、能書家の梁鵠、音楽家の杜夔などの傑出した人物が襄陽に集結した。当時の襄陽は、このように優れた人材がこぞって集まり、一時期隆盛を極め、全国の学術の中心地となった。教育、文化、学術研究などの分野でも突出した業績を上げて注目を集め、多様的な文化現象を生んだ。洛陽の太学を参考に設立された官学では全国で唯一、「五行章句」を改定して、儒学の教科書とするなどの政策を全国で初めて実施したほか、官府が所蔵する本は全国最多を誇った。この学術の隆盛は東晋の時代まで長らく続いた。この時期に、東晋の史学家、習鑿歯(しゅうさくし)が編纂した歴史書「漢晋春秋」や「襄陽耆旧記」などは、中国の史学の発展に対し、深遠なる影響を及ぼした。

 東晋の高僧、釈道安は襄陽に15年間に渡って住み続け、仏教学を研究すると同時に広め、経典の解釈を一新した。また、僧の戒律や規則を確立させ、初めて中国の僧制を制定したほか、中国初の仏教の経典目録を編纂し、インド仏教の中国化の基礎を築き、中国文化の儒教の勢力構造の形成および漢全体に仏教を伝える上で大きな役割を果たした。これによって、襄陽は中国全土において仏教を伝達・発信する中心地となった。襄陽は、「中国三国文化の郷」であり、三国文化を伝える豊かな遺跡・遺産を誇る。また、「三国志」86巻のうち、18巻は襄陽を舞台にしているほか、「三国演義」の120章のうち32章の物語が襄陽を舞台に繰り広げられている。現存している三国の歴史文化を伝える遺跡は50カ所にも上り、「三国演義」に登場する「司馬荐賢」、「三顧の礼」、「馬躍檀渓(劉備が馬で檀渓の激流を飛び越えた話)」、「水淹七軍(関羽が魏の樊城を水攻めした話)」、「刮骨療毒」など、誰もが知っている有名な三国志の物語は、いずれも襄陽市を舞台とする。

 「人民網日本語版」2013年12月27日

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