2014年7月30日  
 

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大学で教えながら帰国華僑を手伝う郭強さん

人民網日本語版 2014年07月29日13:57

今回の人物:

郭強さん、男性。1956年6月8日、日本の東京生まれ。工学修士。現在、北京聯合大学自動化学院の准教授を務める。1987年3月に日本留学し、大阪府立大学大学院経営工学専攻を卒業し、2000年に中国に帰国。北京市華僑連合会日本華僑親睦会副会長兼事務局長。主な編著書に「日本帰国華僑と中日友好」(執行編集主幹)がある。

インタビュー実録:

■家庭の事情で小さい頃から日本語を学習

――日本に留学されたのはいつですか。当時、中日両国の交流はどのような状況にありましたか。

 当時の留学手続きは今よりずっと面倒でした。私は1986年に手続きを始め、87年3月に日本に出発しました。中日両国の関係は非常に良好で、日本留学は米国留学より人気がありました。

 中国では1980年代、日本の映画やドラマがよく放送されていました。日本の技術が発達していることも知られていました。私自身は、両親が日本帰りという特殊な環境があり、小さい頃から両親の話す日本語を聞き、影響を受けて育ちました。高校の時、父が仕事の合間に日本語を教えてくれるようになり、兄と弟と一緒に日本語を勉強しました。当時、中国と日本の首脳はどちらも相手を重視し、政治・経済・文化・スポーツなど各種の代表団を相互に派遣していました。私はこのような背景で日本に留学しました。

――日本に着いてどんな印象を受けましたか。

 日本に到着して飛行機を降りると、多くの看板やネオンライト、小型車があふれていて、目がくらむようで、夢を見ているようでした。最初に着いたのは大阪でした。道行く人はみなおしゃれで、地下鉄や路線バス、長距離バスもとても快適で、ハイテクさが目につきました。日本語は日本に行く前に勉強し、大学に入ってからも独学し、第二外国語として学んでいたのですが、当時、日本の大学院に入るには語学学校で学ぶ必要がありました。ですから大阪の語学学校で日本語の基礎知識を系統的に学びました。

 語学学校を終えて、大阪府立大学の大学院研究生となりました。日本の大学院では、研究室でまず一年間聴講する必要がありました。この一年で教授が学生を観察し、専門知識を学ばせ、一年後に試験して採用するかを決めるのです。日本では語学学校で一年、大学院で研究生として一年、大学院生として二年学び、四年かけて修士学位を取得しました。

郭強さん


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