筒井重雄さんは、中国の第1世代の空軍パイロット育成に携わった日本人八路軍の元兵士だ。筒井さんは第二次世界大戦後、日本に帰国した後も中国のことを忘れず、積極的に中日友好活動に関わった。
筒井重雄(改名前の名前:木暮重雄)さんは、1920年10月11日に群馬県の貧しい養蚕農家に生まれた。パイロットだった兄の影響で、木暮さんは1940年に空軍兵となり、技術訓練、飛行訓練を経て、最終的に15301部隊の飛行教官となる。
1945年1月、木暮さんは命を受けて唐山から南京に飛び、受け取った戦闘機「隼(はやぶさ)」を操縦して帰還する途中で、飛行機のエンジンの故障により、山東省泗水県の河原に不時着、八路軍の捕虜となった。
その後、学習のために日本人労農学校の山東分校に送られた木暮さんは、日本人民解放同盟に加わることを決意、八路軍の兵士となった。日本八路軍・新四軍戦友会事務局の小林陽吉氏によれば、筒井さんは当時を振り返り、「『溺れる者は藁をも掴む』と言うが、解放同盟の助けがなければ、私は当時、本当に溺れ死んでいた。私は新たな人生を歩み始めた」と語っていたという。
1945年8月15日、日本は降伏したが、華北地域の日本軍は武器を手放さなかった。木暮さんは八路軍の代表として日本軍の兵営に赴き、投降を勧告した。様々な反戦活動を終えた後、木暮さんはハルビンで東北民主連軍と共に日本人の引き揚げを手伝った。そんなある日、中国が空軍の創設を計画しているものの、教官が不足していることを知った木暮さんは、空軍に参加させてもらえるよう、東北民主連軍に願い出た。こうして1946年9月、木暮さんは中国空軍の一員となった。