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「安倍談話」は一体何を語ろうとしているのか

週刊!深読み『ニッポン』第82回

人民網日本語版 2015年08月17日08:37

週刊!深読み『ニッポン』

 日本の安倍晋三首相は14日、国際社会の高い注目を受けていた「安倍談話」を正式に発表した。この「談話」が高い注目を受けたのは、第一に、談話が、70年前の侵略戦争を日本の現政権がいかに正しくとらえるかという根本的な是非にかかわるものであるためである。第二に、安倍首相が今年初めに「有識者懇談会」を作り、談話のムードを醸成するための下準備をしていたためでもある。第三に、「安倍談話」において、「村山談話」で用いられた「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」という4つのキーワードが踏襲されるか、さらにこれらのキーワードが具体的にいかに用いられるかが、国際世論の焦点となっていたためである。(文:厖中鵬・中国社会科学院日本研究所副研究員)

 「安倍談話」についてはまず、発表にあたって選ばれた日付が「8月14日」であり、「8月15日」でなかったことが検討に値する。日本が無条件降伏した敏感な日である「8月15日」が故意に避けられ、8月15日に発表された「村山談話」と区別がはかられた根本的な目的は、日本が負うべき侵略戦争の罪の責任を「安倍談話」において述べるべきであることを曖昧にし、「安倍談話」において誠意ある謝罪の言葉があるかという国際世論の注視をそらすことにある。

 次に、「安倍談話」において用いられた「侵略」と「植民地支配」というキーワードの表現は、非常に曖昧模糊としており、国際社会の信服を得られるものではない。「安倍談話」はこのように述べている。「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」。「安倍談話」における侵略戦争と植民地支配に関する重要表現はこれに尽きる。安倍首相の目には、日本が行った侵略戦争と植民地支配が、侵略戦争とまったく関係のない第三の国がどこかで起こった戦争を横から眺めるようなものに変わってしまっているのである。安倍首相の語る「侵略戦争」と「植民地支配」は、いったい誰が侵略戦争の発動者であり、侵略戦争においてはどの国が侵略され、どの国が植民と奴隷の如き酷使に遭い、どの国が侵略戦争と植民地支配の被害国であるのかをはっきりと示すものではない。曖昧模糊とした文脈の中で、侵略国と被害国との境界は実質的には混同され、ぼかされている。侵略国と被害国との境界が混同されることによって、第2次世界大戦のアジアにおける戦争の策源地であり、アジア侵略戦争の発動者であるという日本の凶暴な役どころもまた、徹底的に曖昧にされ、見分けられなくなっている。

 さらに、「安倍談話」における「反省」と「お詫び」の記述もまた、日本政府が公式見解として示すべき「反省」と「お詫び」の誠意をはっきり伝えるものとなっていない。「安倍談話」はこのように述べている。「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」。「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」。こうした文言は、日本はもう何度も反省と謝罪を繰り返してきたのだ、日本に今生きている人々やその子孫、先の世代の人々は反省と謝罪を繰り返し負う責任はないのだとの印象を与える。しかしこの言葉は次のような意味を暗に含んでいる。安倍首相自身も戦後生まれの世代である(安倍首相は1954年生まれ)。ならば戦後生まれの日本の政治家やその他の人々は戦争には何らの関わりもなく、日本のかつての侵略戦争の歴史と罪責を記憶する必要はない。侵略戦争をうやむやにしようが、美化しようが、否定しようが、戦後生まれとその子孫であることを口実にすれば、日本が「歴史修正主義」の茶番を再演しようとしているとの国際社会の批判をかわせる。


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