北京第二外国語大学・邱鳴
『天高く、蟹肥える』十月、第十二回日中友好中国大学生日本語科卒業論文コンクールは上海の复旦大学において開催されました。毎年このような実り豊かな季節に、全国から推薦された中国の日本語を専攻する大学生最高レベルの卒業論文を審査することも、私にとっては大変楽しいことです。
今年、文学部門の推薦論文は16本で、言語部門の16本、社会文化部門の10本という比率から見ると、バランスの取れた数字と言えると思います。数年前の文学離れの時期に、一桁数年続くの状態から脱出できたのも文学教育が一層重視された日本語教育の現状が似実に反映されたと言えます。また、更に注目すべきところは現代文学を研究対象とする論文と古典文学を研究対象とする論文とのバランスです。一時古典研究の卒論が圧倒的に多い時期と比べると、16本の内、古典が4本という数字は現代文学の学習を主とする中国の日本語教育現場から見ると、妥当な数字と言えましょう。そういう意味で、小野寺先生が十九年前の先見の明で始めた本コンクールはその発信力と牽引力の役割が大きいと思います。
回数が重なるにつれて、優秀な論文が着実に増えてきたことを大変うれしく思います。しかし、一方コンクール影響の拡大で、あまり賞を意識しすぎたせいでしょうか、作品の精読と分析よりも理論的な陳述と展開を重視し、地道な研究よりも偏に斬新さを追及する傾向が文学部門に見られるようになりました。そこで、良い論文、とりわけ学部生の卒業論文としての良い論文の判断基準は一体何であろうかと、もう一度考える必要があると思います。
本コンクール評価基準において独創性が最も重視され、三項目のうち、半分の点数を占めているが、しかしその独創性についてどう理解すべきなのか、必ずしも明白な答えがあるとは思いません。私は、独創性とは二つの要素、つまり内容における独創性と方法における独創性によって構成されたと思います。学部生の卒業論文の独創性とは、私はやはり方法としての独創性の方がより適切、より大切だと思います。内容の独創性、つまり前人未到の領域に到達するような壮挙は素晴らしいですが、それは普通の学部生の能力を超え、実現できる可能性が少ないし、喩えそのような例があるとしても、師範性のあるものにもなれません。今回もこのような傾向のある論文に賞を与えなかったのも審査委員の一致した意見です。それに対し、喩え論文の結論は先人の研究結果とおなじでも、違う視点や角度からアプローチするのも、同じく独創性として評価すべきでしょう。皆南側からエベレストに登頂しているに対し、自分だけ北側から挑戦すると同じようなことで、「頂上」という到達点よりも、学部生にとっては、いかに頂上までのルートを自分の力で模索するのは最も大事ではないでしょうか。今後このような独創性を持つ論文が一層増えることを期待しております。