日本青森県博物館付近の埠頭で見える美しい海水 |
■訴訟による民衆の反撃 透明な水と青い空を自分たちで守る
環境の悪化により、人々の健康は大いに損なわれた。日本の市民はこの状況に対し、座して死を待つことは選ばず、生存のための水源や土壌、空気を守るために、法律を武器に次々と団体を組織し、集団訴訟を行った。1967年、四日市の企業が起こした公害によってぜんそくの健康被害を受けた住民9人が電力会社、化学会社、石油精製会社など企業6社を相手取り訴訟を起こし、工場の運営停止と巨額の損害賠償を請求した。これは、日本初の大気汚染が引き起こした公害訴訟であり、新潟の水俣病訴訟や富山県のイタイイタイ病訴訟、熊本の水俣病訴訟と合わせて4大公害訴訟と称された。
この訴訟は4年10カ月後に原告側の勝訴で決着が付いた。当時、裁判所は伝統的な責任追求の判定を覆し、公害企業による共同の不法行為を認め、原告側の全面的な損害補償請求を支持した。だが工場運営を停止する原告団の請求は却下された。この判決が出た後、各地で連鎖反応が起こり、日本政府は慌てて「公害健康被害補償法」などの関連法律を制定した。
四日市公害訴訟後、日本各地で大気汚染を原因とする公害訴訟が数多く起こされた。中でも、最近有名な公害訴訟は東京大気汚染訴訟だ。
1996年5月31日、車の排気ガスにより各種疾病を患った患者や死者の家族102人が日本道路公団(当時)、自動車メーカーに対して東京地方裁判所に訴訟を起こした。その後数年間で、同じような被害を受けた原告がそれぞれ同じ被告側に対して訴訟を起こし、訴訟数は6回、原告人数は総計633人に上った。
2012年12月29日、日本の東京地方裁判所は第1回訴訟の判決を下したが、原告と被告は共に判決を不服とし、東京高等法律裁判所に控訴した。2006年9月28日、第1回訴訟の控訴判決が下され、裁判所は原告と被告に対し、和解建議書を提出、双方に話し合いで問題を解決するように伝えた。2007年8月8日、134カ月間、6回にわたる訴訟で原告と被告がようやく和解に達し、被告は大気汚染による疾病患者の医療費助成制度を設立し、政府は自動車の排気ガスを規制する対策を実施し、自動車メーカーは12億円の和解金を支払うことで合意に達した。しかし、この時点までに、633人の原告のうち、107人が自動車の排気ガスの汚染による疾病ですでに死亡していた。
日本の汚染対策の過程において、それを推進する上で民間公害訴訟が欠かすことができない重要な推進力となった。また、巨額の損害賠償金が政府を強制的に動かすと同時に、企業に汚染対策を重視させ、汚染を防止・管理する関連法律の制定を促した。