2013年12月25日  
 

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南京大虐殺で30万同胞が犠牲となってから76年

 2013年12月13日14:44
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当時の経験を座談会で語る南京防衛戦の元兵士。

 南京大虐殺で同胞が犠牲となってから今日で76周年。思い出したくないが、忘れることもできない日だ。今日、あの災難を思い起こすのは、南京大虐殺の真相と日本軍国主義の狂暴で残虐な本質を世界の人々に理解させ、平和を大切にし、戦争に反対するためである。人民日報海外版が伝えた。

 1937年12月13日、南京を攻略した日本軍は松井石根・華中方面軍司令官の指揮下、放火、殺人、強姦、略奪を公然と行った。世界的にもまれに見る大規模な虐殺、凄惨な殺戮だった

 国内外を驚愕させた、この世のものとは思えぬ残虐な「南京大虐殺」は、日本侵略者が中国で犯した最も残忍非道なファシズム暴行であり、世界の文明史に痛ましい1ページを残した。

 古都南京の数多くの貴重な文化財も狂気じみた略奪に遭った。わずか1か月で日本軍は各種書籍・文献88万冊を奪い去った。これは当時日本最大の図書館であった上野の帝国図書館の蔵書数85万冊を上回る。

 極東国際軍事裁判は、南京大虐殺を中国侵略日本軍が「組織的、計画的に、目的を持って行った悪行」と認定した。

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コメント

最新コメント

匿名を希望します   2013-12-20220.63.99.*
歴史認識が共有できるために日本の右傾化は、想像以上に、一般国民の意識の中に広まっている。きっかけは、解決の見えない北朝鮮の拉致問題が大きいと思う。13歳の女子中学生の拉致は、未だに日本人の心の傷となって、他に確認のできない失踪者、行方不明者の未解決とともに、一般の日本人が、交戦権の否定や平和主義を、無条件に無防備に貫くのを難しくしてきたと思う。さらに、20年近くにわたったデフレ不況や失業、正規、非正規などの格差、貧困などにより、国民全体に鬱屈した空気が蔓延した中で、タカ派の安倍晋三氏の量的金融緩和をはじめとする経済政策への期待が強まり、そのタカ派的政治思想への不安にもかかわらず、安倍政権の誕生となった。しかし、周辺諸国へ犯した日本の過去の歴史的事実まで否定しようとする動きは、日本人自身の警戒すべきことであると思う。戦前の国体復活の芽が、底流を流れていて、折あらば、大日本帝国憲法や戦前の帝国への野心、戦前の美化を願うものが未だに保守勢力の中にいるのは事実として意識しておかなければならない。歴史認識に関しては、少なくとも、中学、高校で教科書から得た知識では、南京虐殺や、侵略を否定するようなことはなく、良識として、中国をはじめとする周辺諸国への日本の侵略行為を認めており、そのように学習している。ただ、それが、量的、質的に十分なものか、そして客観性に立つ努力が、学習後も持続性をもって国民に浸透しているのかは疑問の余地がある。                         残虐性や被った苦しみというものは、その具体的で詳細な描写や直接経験者の訴えなどにより、はじめて真実性や迫真性をもって認識されるが、そこまでの学習は普及していないと思う。史料や歴史書への個人的で自主的な読み取りで、初めて衝撃的な事実に出くわすことになる。中国をはじめ、周辺被害国と加害国の、歴史認識に関する大きなズレは、一つ一つの具体的で詳細な描写やその直接体験の訴えなどによって得られた、残虐性や苦しみへの理解、共感の程度や有無にあると思う。そして、この理解を獲得する、辛い過程は、ときに、史料を探索し、体験を聴き、読み取る者の精神的な負担やトラウマを生じさせる。誠実にくみ取ろうとするものほど、その精神的重圧に耐えきれず、ときにアイリス・チャンのように、その鬱によるとされる自殺原因が事実であれば、そのような悲劇をも生み出す力がある。まして、自分の意志に関わらず加害国側に生まれ育ち、過去の負の遺産と衝撃的な出会いをし、その狂気と誠実に向き合わねばならない場合は、なおさらのことだ。こうした、過去の残酷な歴史的事実を、人類全体の負の遺産とし、将来への教訓とするためにも、被害国の絶えざる承継や訴えはいうまでもない。そして、一方の加害国の人間として、加害国内の新しい世代がこの国際社会の中で被害国と信頼関係を保ち、平和共存してゆくためには、その残酷さや悲劇の具体的な事実を、自らの国の犯した残虐行為として、知り、感情の深いレベルで理解しなければならない。しかし、そうした学習の経過の途上で、正常な感覚を持つものであれば、立往生をし、身動きできなくなるほどの、さまざまな自虐感情や心理的葛藤に苛まれる。そうした負の感情を、絶望や悲劇へ導く力にゆだねるのではなく、明日を築く勇気や生きる力に変えるには、この想像をも時に越える地獄を、しかも加害国側の人間として、どのように、把握し、理解し、心の中で整理するべきなのだろう。突きつけられた現実が、非難と中傷と断罪、それへの無条件の自虐、服従を強いるものであれば、結論は、日本人の生存権の剥奪である。日本人は永遠に、再起不可能の棄民として、さらなる原子雲のもとに消滅せねばならない。そうしたことが、国際社会の願いであるのならば、こうした歴史の記録そのものが、自暴自棄に陥る加害国の人間には無意味になってしまう。歴史を学ぶのに希望がなく、自らの消滅を暗示し促すものであるなら、加害国にとって、次の世代に継承することは無意味である。監房のもとで余生を過ごす死刑囚のように、未来の描けない歴史学習であるのなら、消し去るか、修正し美化した過去への傾斜に走ろうとする者も出てくるだろう。手を汚したことのない、戦争経験のない世代にとって、残虐性への直視は、精神的負担のとてつもなく大きい精神的作業だ。過去の加害行為を、加害当事国に生まれ育ってゆく世代へ伝える、意味のある歴史とするためには、歴史の客観性だけでなく、学ぶことで、加害国の人間にあっても、将来に、誇りや信頼や、平和への可能性や確信を育て上げられ得るものにしなければならないと思う。歴史の記録が、加害国への、ひたすらの「呪いの書」ではなく、新しい世代にとっての「教訓の書」であるような、歴史認識であるためには、どのような学び方をすればよいのだろう。被害国からすれば、虫がいいともとられないが、それでも、70年近く戦争を知らない、我々や、さらに若い世代には、荒唐無稽の作り話のようにしか受け止めきれない、それくらい当時の残虐さはすさまじい。そして、中国人の寛容さばかりに甘えてはならないとは思っても、昨今の政権にある日本の指導層に、こうした負の歴史の教育や普及に対する熱意を期待するのはむずかしい。また、子供や未成年など、その適格性次第では拒否反応が先に来ることもあるかもしれない。目をそむけたい心理も手伝い、勢い国内の南京虐殺否定論へと誘導されるかもしれない。どうにかして、過去の歴史の教訓が身になるように学びたい。加害国の人間が歴史的事実の受け入れを拒否したり、自虐史観だとして無視しないための学びとなるためには、直接の被害国である中国人の、歴史の告発者としてだけでなく、負の世界遺産の管理、普及、教育など、導き手としての役割や叡智、工夫をも、心から願っている。「反省」という言葉を中国側から聞くことがある。反省というのは、もちろん、自己の行為が過ちであり、悪であることを認め、被害者への謝罪を自分の心の底から思うことであるが、個人レベルで、日常生活の償い可能な出来事に使用することが多い。南京虐殺のような、国家レベルで、しかも、殺人やその態様、残虐さのレベルが、途方もなく大きく、すさまじいとき、反省という言葉では、対処しきれない感覚がある。反省をするには、あまりにも、事の重大さ、深刻さが、歴史的、世界史的な、人類史的な意味を帯びていて、反省して償いが終了する、反省して被害者が納得するというようなレベルではなくなる。もちろん、そうした歴史的事実を頭から認めようとしない不誠実な態度や頑なさには「反省」という言葉は適切だと思う。しかし、南京虐殺の行為そのものに対して使われるとすれば、反省という言葉には、事の重大さを日常レベルに卑小化し、反省した時点での解決という、歴史的、人類史的テーマに対する半端な掘り下げの危険があると思う。自国の過去の蛮行を、歴史的事実として学び、今後の教訓とするのはいうまでもないが、それ以上に、こうした、残虐さが、どのようにして、もたらされるのか、どうすれば、このような行為を犯せるようになるのか、どうすれば犯さずに済むのか、人類の普遍的なテーマとして、問い続けなければならないと思う。ナチのユダヤ人虐殺、原子爆弾による大量殺りくなど、過去の歴史が提示する、残虐さの膨大な歴史的事実と同様に、将来への世代に対する教訓、責任として、一過性に終わらせないテーマとして、国際社会の成員全てが学んでゆかなくてはならない。南京虐殺記念館の建設を、まさに加害国の一日本人が強く勧めたのも、そうした、人類共通のテーマとすべき、次世代への責任、人類への責任、国際社会への責任を強烈に感じたからだろうと信じる。一時期、直接南京への旅行を意識したことがあったが、言葉や直行便がないなどのアクセスのむずかしさ、そして、加害国の人間としての、うしろめたさ、地元の被害感情への不安なども手伝って、行かずに終わった。昨今の日中関係の悪化で、足はますます遠のいている。しかし、幸いにも、ネットの普及で、多くの資料や、意見や主張を手軽に参照できるようになった。こうした、情報のやり取りが、最大の安全保障、平和共存への確かな手段だと自覚している。今後も、いろいろな機会に、意見を拝聴したり、感想を述べたりしてゆければと思う。最後になりましたが、先の大戦で亡くなられた多くの犠牲者の方々の、ご冥福を、心よりお祈り申し上げます。歴史的事実に誠実に向き合うことが、日本人としての御霊への償い、国際平和への正道だと信じています。
宮田聡美   2013-12-14113.96.159.*
南京大虐殺のような歴史に関して、無知よりもっと危険だと私が痛感しているのは決して右翼でも、低知識層でもなく、ごく普通の日本人として通っている人が、「知っているが、戦争だから仕方ない」「そんなに沢山殺しいない」「日本も原爆で何十万殺されたが、アメリカに謝罪を要求していない」類の「自己弁護」です。非常に偽善で、冷酷で、無知よりもはるかに被害者を侮辱し、傷つける言動なのに、本人は全然気が付かないし、逆に自分こそ良識ある善良な日本人だと信じているのだから、始末に負えないのです。こういう日本人に、戦争だから何をしてもいいのか?一人だったら虐殺ではないのか?原爆の被害者は本当に謝罪を要求していないのか?と質問すると、大抵は言葉につまり、己の間違いに気が付くものの、認めようとせず、逆に「どうして、そんなに怒るのか」と相手を恨むものです。「無知」ではなく「偽知」が、日本の歴史への反省を妨げ、右翼、軍国主義の土壌になるのだと、私は思います。
宮田聡美   2013-12-13183.1.244.*
私個人としては、この日を忘れたことはありません。中国との歴史問題は、私の生き方に決定的な影響を与えました。すなわち、歴史を反省し、再び日中両国の人々が戦争の惨禍に見舞われぬよう、日本に対しては右傾化を警戒し、中国に対しては何か役立つことをしよう、ということです。残念ながら、私は平凡な人間で、短気で、根性ある方でもないので、今まで何一つ大したことはしていませんし、これからもそうでしょう。これからあと何年生きるか分かりませんが、今決意していることは、中国で死ぬことと、死後残ったお金は中国の貧困地域の教育施設等に寄付すること、献体して臓器移植等に役立ててもらうことです。