「日本軍国主義の復活」と言うと、同意しない人や、わざとセンセーショナルな事を言っていると指摘する人さえいるだろう。右翼勢力、右傾思潮と軍国主義はやはり同じではないという考え方がある。これは間違っていない。画策と実行、動機と結果のように、確かに違いがある。だが常識的に考えて、豆を植えて瓜がなることはあり得ず、右傾化の土壌からは悪の花しか咲きえない。右傾勢力が拡大し、右傾化思潮が氾濫すれば、軍国主義が現実的危機に変わる。
第1に、日本には悪夢から覚めていない政治屋たちがいる。日本の敗戦はすでに歴史となっている。70年近くが経ったが、侵略の歴史と敗戦という結末を気にかけ続けている者がいる。相当長い間にわたり、国際社会は高度に警戒してきた。日本も戦後秩序に公然と挑戦することは敢えてしなかったが、様々な小細工を止めることはなかった。教科書をこっそりと見直し、慰安婦という罪を極力覆い隠し、「神風特攻隊」を公然と世界記憶遺産に登録申請し、閣僚が大規模な「靖国参拝」を行う。戦争の罪に関わる全ての問題において消極的な姿勢で、最低限の誠実さもない。かつて米国人が「菊と刀」で日本を形容したように、表向きの穏やかな笑顔の裏には、往々にして鋭利な軍刀が隠されているのだ。通常、復讐の炎は歳月の流れに伴い弱まるものだ。だが日本では逆に日増しに激しくなっているのをわれわれは目の当たりにしている。戦後日本が平和を受け入れたのは、敗戦を前に行ったやむを得ない選択だった。降伏という運命を受け入れない。これが戦後日本政治のあり方だった。過ちを犯しても認めず、罪を犯しても悔いないのは道理に合わない。さらに危険なことに、日本には自らが過ちや罪を犯したとは思っていない政治屋たちがいる。
第2に、米国のアジア戦略を利用して波風を立てている。歴史的に見ると、米国は日本を壊滅させた後、冷戦の必要から支援した。現実的に見ると、米国は「アジアリバランス」を遂行するためにも、日本を重んじなければならない。日本はチャンスを見極め、勢いに乗じて米国の束縛から脱しようとしている。米国は日本右翼勢力の危険性を完全に理解しているが、武装した日本は太平洋対岸の米国と何をするのか?かき乱す先鋒になる事を望む者がおり、これは自ずと米国の利益と合致する。彼らは互いに力添えを必要としているが、考えていることは各々違う。「昭和時代」に浸っている日本の政治屋と違って、米国はプラグマティズムを実践している。利点がなければ、米国は断じてやらない。かつて日本を粉砕させた米国が意外にも日本の同盟国になったのと同様、再武装した日本が「米国のめかけ」(石原慎太郎の言葉)であることに甘んじなかった場合、日本という駒を米国が払いのけられるかどうかは分からない。こうした複雑な地政学的関係は軽視できない。
第3に、右翼思潮が行動に変わりつつある。第2次大戦の痛ましい教訓から、日本には右傾思潮に賛成しない見識の高い人も少なからずいる。だが悪の勢力の膨張は、往々にして抑制困難な衝動だ。長い冬眠を経て、右翼思潮が水面に浮上してきている。日本の外交政策が尚武・好戦の伝統に回帰しつつあること、武器輸出三原則を見直して日本の軍需産業を大々的に刺激しようとしていること、集団的自衛権の制限を緩和して海外出兵への道を開こうとしていること、平和憲法を改正して武力濫用に法的根拠を与えようとしていることが、それを示している。日本は立て続けに口実を探し、策を講じて、軍事力を拡大し、武装を加速し、あらゆる非平和の邪悪な力を活性化させると予測できる。信じられないと言うのなら、刮目して待つがいい。