2014年1月6日  
 

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漢水文化の中心地

 2014年01月06日14:38
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 中国古代から4大大河の一つと呼ばれていた、長江の最大支流である漢水の流域は、中華民族発祥地の一つだ。漢水の中流に位置し、東西南北に通じている襄陽は、「漢と晋の時代から重鎮となった」とうたわれ、漢水流域において最も重要な都市である。襄陽は、この地理的な優位によって、歴史において地域経済・文化の中心地となり、重要な影響力を誇る漢水文化となり、それを代表する地域となった。

 今でも残るものとして、まず一つ目に挙げられるのは、古い歴史を有する商業文明だ。漢水は中国古代の内陸河川のうち、最も素早く、最もスムーズで、最も栄えていた「黄金水道」だった。襄陽は、もともと「南船北馬」、「7つの省へ通じる道」といわれ、漢水流域の最も重要な埠頭であり、商業文明は2000年以上も続いた。

 二つ目には、詩賦(しふ)文化の繁栄と結実だ。中国文学の二大原典といわれる中国最古の詩篇「詩経」と「楚辞」はどちらも漢水流域を舞台としており、そこから広く伝わったものだ。「詩経・漢広」が描く漢水の女神は中国文学史上最も早くに誕生し、河川の女神のイメージとして最も広く深遠な影響を及ぼした。漢水の女神は絶えることなく現在まで伝わっている。1100年の歳月が流れても、漢水の女神のイメージは多くの漢水流域に暮らす美しく、善良で、聡明で、高貴な女性の象徴であり、異なる時代、異なる文化背景であろうと、美の追求や善の尊さ、恋愛に対する漢水流域に住む人々の憧憬が託されている。

 襄陽で生まれ育った宋玉や玉逸は楚辞(中国戦国時代の楚で謡われた詩の様式)で有名な詩人だ。宋玉は楚辞を楚賦(楚辞の形に基づいた、やや散文に近い韻文)へと進化させ、玉逸は詩集「楚辞章句」を編纂した。ここでは、襄陽の美しい山水の風景を伝える美しい伝説の古代の詩歌が無数に誕生している。出版されたり、明確な出典が調べられているものだけでも、2500首を超える詩歌がある。そのうち、最も多いのは唐詩で、300首にも達している。襄陽は、中国文学史の学者たちも認める唐詩の舞台として知られる地だ。李白、杜甫、王維、孟浩然、張継、皮日休、白居易などの唐代の著名詩人たちはこぞって襄陽のことをうたい、襄陽を題材にした詩歌を詠んだ。「唐詩三百首」の中で襄陽をうたっている詩は27首、うち孟襄陽の詩は15首だ。

 三つ目には、大きな影響力を有する書画文化だ。襄陽は、「中国書道の名城」とうたわれ、歴史的に見ても、三国時代の梁鵠、邯鄲純や隋唐時代の丁道護、杜宙言、北栄時期の米芾、米友仁、張友正などを輩出している。米芾は巷では「米襄陽」と呼ばれ、当時、蘇軾、黄庭堅、蔡襄と合わせて「宋四家」とうたわれた。米芾が描いた「米点山水」(米芾・米友仁父子が始めたと 伝えられる水墨山水画法)は時代を超えて名を轟かせ、「研山銘」は一千数百年を経た今でも人々が模写を行う書の法帖となっている。襄陽の漢水文化の影響は非常に深遠だ。もし、漢水の上流に位置するのが西漢の源流とするなら、漢水の中流に位置する襄陽地域は東漢の源流となるだろう。劉秀(後の漢の光武帝)は現湖北省の舂陵で蹶起 して、漢朝廷を中興させ、襄陽に漢水文化を伝える上で非常に大きな影響力をもたらした。韓国はこれまで漢朝を倣った制度を整備してきたが、襄陽郡を設置したことで、峴山、漢水、鹿門、太平洋などの襄陽の地名が今でも残されている。米国、日本、台湾、香港、上海、天津などでも道や公園に襄陽という名前がつけられている。

 「人民網日本語版」2014年1月

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