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民間団体が三竃島への日本人移民団の資料を公表

人民網日本語版 2015年03月26日09:51
移民団資料

 珠海市三竃島日本軍中国侵略罪証調査研究団は24日、沖縄県名護市史珠海市三竃島移民団資料を公表した。中国新聞網が伝えた。

 資料はまず日本から三竃島への移民の背景、時代状況などを概説したうえで、その動機、現地での生活と仕事、島民と日本軍の関係、敗戦後の収容生活など具体的な足跡をたどっており、非常に全面的で、比較的客観的かつ真実の内容だ。

 団員の劉昌言氏によると、中日戦争期に日本政府は中国東北部以外に華南地域の三竃島にも移民団を送り込んだ。同島は広東省闘門県南方の海上に位置する。行政区画上は1953年以前は中山県に属し、現在は珠海市に属する。日本海軍は1937年12月に同島を占領すると、軍用飛行場を建設した。それまで華南地域に航空基地を持たず、同島の航空基地には重大な戦略的意義があったからだ。基地への食糧供給あるいは恐らく軍事警備上の必要から、沖縄県から同島に農業移民計400人前後が送り込まれた。名護市は琉球諸島沖縄本島北部に位置する。三竃島と沖縄本島は気候が似ているため、日本から三竃島への移民は全て沖縄本島からだった。三竃島移民団の歴史は余り知られていない。

 資料によると、1937年12月に日本海軍陸戦隊は初めて三竃島に上陸した。「大日本帝国」のアジア侵略に伴う北方への植民政策を満蒙開拓とすれば、三竃島や海南島への移民は南方への移民政策と言える。日本軍は1938年4月12日から14日にかけて大虐殺を行った。例えば魚弄村では全村の老人、女性、子ども計386人が殺された。3日間に2000人以上が殺害されたうえ、飛行場完成後は連行された労働者や周辺住民も虐殺された。追われて海で溺死した人もあり、死者は計8000人を超える。日本軍に殺害されたのは全島で2891人、餓死者は約3500人とする文献もある。こうした出来事について、戦後茅田村は「万人墳」、魚弄村も「千人墳」を建設した。資料によると、三竃島の沖縄開拓団は当然日本軍の軍糧生産を主とし、生活の各面が日本軍のシステムに組み込まれていた。日本軍は飛行場の本部と三竃街の駐屯地の2カ所に駐留。本部の入口には慰安所があり、「朝鮮婢」と呼ばれた朝鮮女性約30~40人がいた。(編集NA)

 「人民網日本語版」2015年3月25日


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