1998年には、中国で大水害が発生し、当時の長崎県知事・金子原二郎氏が中国の被災者のために先頭に立って街頭で募金活動を行った。(写真の提供者:曽文彬氏)
1992年10月23日、天皇皇后両陛下が正式に訪中し、楊尚昆主席が人民大会堂で開催した盛大な歓迎晩餐会の席で、「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました」と述べた。明仁天皇が北京で、中日間の不幸な歴史に関する思いを公の場で表明したことは、各方面から幅広い認可を得た。天皇の訪中成功は、両国の善隣友好関係の促進に重要な役割を果たした。
曽氏は長崎総領事時代の思い出について、次のように語った。
長崎は中国と地理的に最も近く、古来より中国と密接な関係を築いてきた。長崎の文化や習慣の多くは中国の影響を強く受けており、人々は中国に対して非常に友好的だ。1997年、在長崎中国領事館が香港返還を祝う記念イベントを開催した際、多くの日本の友人と自治体関係者が参加した。当時の長崎県知事もイベントに出席して式辞を述べ、香港返還を祝った。長崎の人々のうれしそうな様子は中国人と変わりがないほどだった。
1998年には、中国で大水害が発生し、当時の長崎県知事・金子原二郎氏が中国の被災者のために先頭に立って街頭で募金活動を行い、多くの中国人を感動させた。最終的に、人口わずか130万人あまりの長崎県で行われた募金活動で5000万円以上の寄付金が集まった。ここからも、長崎の人々の中国人被災者に対する思いがうかがえる。
1973年3月、読売新聞社の副社長・原四郎氏を団長とする代表団が訪中した。代表団らは浙江省を訪れ、西湖湖畔の柳浪聞鶯公園に建立されている「日中不再戦の碑」を見学した。同石碑は1963年12月に立てられたもので、当時の岐阜市の松尾吾策市長が提唱し碑文を書いた。これに合わせ、当時の杭州市長の王子達氏が周恩来総理の指示を受けて書いた「中日両国人民世世代代友好下去」(中日両国の世世代代にわたる友好が続く)という記念碑も日本の岐阜公園に設置されている。
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