一帯一路(1ベルト、1ロード)戦略構想の推進に従って、「シルクロード」が世界各国から注目されている。
シルクロードと日本
古来、日本人はシルクロードに憧れてきた。特に唐代(618-907年)になると、日本は中国モデルを全面的にくみ取り、シルクロードの文化と物は日本が参考にする見本になった。学びが実を結んだ主な背景としてまず挙げられるのは、日本の有利な地理的条件である。他の国に比べて、日本は古来より優れた航海能力を持っていた。それは海洋へ出て近隣国を参考にして自身を発展させるための前提条件になった。もう1つは東洋・西洋文化の枢軸であった長安の繁栄が、日本が夢を紡ぐための素材を提供し、大きな精神的原動力になったことだ。中国の文化を学ぶために留学生を派遣した遣隋使・遣唐使戦略は、その当時の日本における時代の精神が反映されたものである。
遣隋使の派遣は607年から始まり、唐代になってからは遣唐使として続けられ、894年に終わるまで相前後して20数回行われた。その過程で、少なくとも1000名余りの派遣留学生が海で遭難して命を落とした。これほど危険な航海であったにもかかわらず、日本の青年たちはそれでも我先にと争って中日間に広がる1000キロもの海路へと船出していった。帰国した後、彼らは命をかけて学び取った唐の知恵と文化財を朝廷と天皇に献上した。756年、聖武天皇が崩御すると、光明皇后は先帝が大事に保管していたシルクロードと唐からの宝物600数点を東大寺に奉献し、それらは東大寺正倉院宝庫に収蔵された。それ以降、歴代の天皇はこの遺風を受け継ぎ、宝物を収集・秘蔵し、宝庫の鍵を独自で管理し、特定の日に単独で倉庫に入って点検し、皇后や身辺に仕える侍従ですら一緒に入ることはできなかった。