子供の頃に抱いた夢もまた、中国の地で実現することができた。「レコードでロックを初めて聴いた時、スピーカーの向こうで演奏する人たちは神様だと思った。『俺もこんな神様みたいな人になりたい』というのが子供の頃の夢だった。それが90年に中国に来て、曲のレコーディングに携わるようになると、中国の80後(1980年代生まれ)の若者が、我々がレコーディングした曲を聴いて『こんなドラム初めて聴いた』と言って感動してくれた」。夢が叶った瞬間であった。
様々な喜びや感動を胸に、ドラマーに憧れる中国の若者たちには身をもってミュージシャンとしての生き様を示してきた。「最初に譜面を書く」「遅刻をしない」…。最初はそんな些細なことから始まった。ドラムのテクニックもその姿勢で示してきた。今年57歳のベテランドラマーが叩くドラム演奏は、若手顔負けのエネルギッシュなもので、熟練のテクニックは「歌うドラム」と評されている。「私ももう歳。どんなに小さなステージであろうと、これが最後だと思って叩いている。もちろんだからといって毎回奇跡を生むような作品になるわけではないが、毎回これが最後かもしれないという意識で叩いた作品を聴いた若いドラマーが何かを感じてくれると思う。『ファンキーのドラムは何が違うんだ』と考え、経験を重ね、私のような歳になったときにはその違いに気づくだろう。そしてその時には今の私のレベルを超えていることだろう。それが先輩として私がこの国の若者に残せる一番大きなものだと思うし、そのプレッシャーがある」と語る。
ファンキーさんはこれまで、中国のロックファンの心を打つ数々の名盤をレコーディングしてきたが、「音楽はその国の人にしかできない」とも言う。北京を訪れ、「中国人のために音楽をする」と決意して音楽活動をするようになって13年が過ぎた2003年のある日、著名な歌手の許巍(シュー・ウェイ)のアルバム「時光漫歩」をレコーディングしている最中、「中国人になった」ことをファンキーさんははっきりと覚えている。「言葉、歴史、人々の暮らし…。音楽には空気感やその国で生まれ育った人にしか分からない感覚がある。少し前の世代の人々であれば、昔は貧しくて、大きくなったら高度成長の波に呑まれ、落ちこぼれ、なんてちっぽけな人生なんだと感じながら、そんな時代を乗り越えて生きてきたからこそ、この曲で涙する。中国人の気持ちが分かった瞬間、中国人が泣けるように叩くことができるようになった」と続ける。「中国人になった」からこそ、ここで暮らす人々の琴線に触れる、ロックファンの心を動かすドラムが叩けるのだ。「歌うドラム」と評価される理由はここにあるのかもしれない。
そんなファンキーさんの「次なる夢」は「北京で死ぬ」ことだ。「この地で出会った仲間がいるから」とロッカーの顔を見せていた。(文・岩崎元地)
「人民網日本語版」2016年6月2日