日本は国際産業移転が典型的に行われた地域の一つであり、1960年代に奇跡的な経済成長を遂げた。国際産業移転の受け入れ国として、日本は労働集約型産業の受け入れを経験し、輸出主導型の産業を発展させ、安価な労働力という強みを発揮して、飛躍的な経済急成長期を過ごした。また労働力コストの上昇がもたらす貿易構造の調整と産業移転の巨大な圧力にも直面した。こうした経緯は中国の経済発展が立ち上がりから現在までの間に直面した苦境と似ており、中国貿易のモデル転換に啓示を与えてくれる。「経済参考報」が伝えた。
▽雁行型モデル
60年-70年代の日本は経済が高度成長期を迎えていたが、第一次石油ショック、飽和状態になった国内市場、労働力の供給不足、賃金の急速な上昇といった要因が、日本経済に外向型モデルの転換を促した。1985年のプラザ合意を経て、日本円は大幅に上昇し、国際間の技術移転ペースが加速し、水平分業が盛んに行われ、日本経済の改革・調整は巨大な圧力にさらされるようになった。日本の産業のバージョンアップと対外貿易の発展のプロセスにおける経験には、次のようなものが含まれる。
(1)雁行型理論と飛躍的モデル。東アジア地域の後れた工業国であった日本の経済発展モデルと産業移転方式は、雁行型理論と呼ばれる成熟した理論を形成した。日本は先進国の進んだ技術を導入・吸収して、産業構造を単一で低レベルのものから、多様でハイレベルのものへと進化させた。動態の学習プロセスを通じて、後発組としての強みを発揮し、初めは移転を受け入れ、後には外に向かって移転・輸出し、日本経済は「輸入—輸入の代替—輸出」という飛躍的な発展を実現し、低付加価値製品から高付加価値製品への進化を達成した。先進国の進んだ技術を吸収し、海外の産業移転を受け入れることで、80年代中期には、日本の電子設備と家庭用電器製品といった電気機械製品は世界で最も高い競争力を備えた輸出製品になり、輸出商品の構造が繊維製品中心から資本・技術集約型製品中心へと飛躍的にバージョンアップした。
(2)海外進出戦略を実施し、海外での生産を拡大した。第二次世界大戦後、日本の産業構造および輸出製品構造の大規模な調整は、いずれも産業の海外移転とセットで行われた。85年に西側の主要工業国がプラザ合意を締結すると、大幅な円高となり、生産コストが上昇し、日本の輸出主導型の産業に非常に大きな影響を与え、日本の製造業が大挙して対外に投資・移転するようになり、海外生産が徐々に国内生産に取って代わるようになり、国内産業の衰退は加速し、ひいては日本の輸出入構造が変化した。90年代以後は、繊維産業を代表とする労働集約型産業と電子設備組立工場などが中国、インドネシアやベトナムといった東南アジア諸国に移転するようになり、強みをもった動態の変化を踏まえて、代理加工産業が次々にアジア四小竜(シンガポール、香港、台湾、韓国)や東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国に移転し、後には中国の沿海地域に移転し、研究開発は日本で行い、生産は海外で行うという分業態勢が形作られた。日本企業の海外進出は最初は安価な労働力を求めてのことだったが、後には市場主導型の海外進出に変わり、海外に生産基地を建設し、日本の産業構造調整にチャンスをもたらすものとなり、日本は東アジア地域の先駆者となった。