2014年6月19日  
 

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カメラマン・佐渡多真子さん「日中間のイメージのギャップを写真で埋めていきたい」 (2)

人民網日本語版 2014年06月12日16:42
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佐渡多真子さん

―――― デザイン会社のOL生活から、どんな経緯でプロのカメラマンになったのでしょうか?

 デザイン会社で働いてみたものの、何か自分が求めているものと違うと感じて、シナリオの学校に行ってみたり、字幕の学校に行ってみたり、その間ずっと自分のやるべきことを模索していました。シナリオ学校には、週に一回通って、その度に宿題が出るんですけど、なかなか書けなくて。徹夜してようやく書き上げて、それを持っていくと、それなりに作品に対して評価はしてもらえたのですが、その時、もし私に才能があって、シナリオライターになったりしたら、こんなに辛い思いを毎日することになるなんて絶対に嫌だなとふと思ったんです。やはり好きなことじゃないと長く続かない。だったら、私には小さな頃から好きで続けている写真しかないと思いました。

 ただ、当時会社を辞めるというのは、まだかなり勇気がいることで、大きな会社ではなかったんですが、女性の待遇もよく、年も25になってましたし、かなり悩みました。

 実は、その頃、同期の中で一番早く主任に抜擢されたのですが、社長に呼ばれて、「君はよく頑張っているから、一番初めに主任にする。結婚しても、子供が生まれても、うちの会社でずっと働き続けていいんだよ。いずれは総務部長になるだろうし、期待している」と言われたときに、私の人生は何も失敗せずに、すごく順調に行って、総務部長の席に座って計算しているのが1番成功した形なんだという絵がぱっと見えたんです。その瞬間、これは私が望んでいる人生とは違うと思いました。何かやりたくても、勇気がなくてもんもんとしていていた私ですが、これにしがみついて、やりたいことをやらないほど、この職業が自分に合っているとは思えませんでした。

 そんなときに、イモージン・カ二ンガムという米国人女性カメラマンが撮ったベッドと花のモノクロ写真を見たんです。特にそのベッドの写真はすごく良かったんですね。きれいなドレープがかかっていて、前の晩に誰が寝たんだろうと想像させるような、ロマンチックなもので、あぁこんな写真が撮れたらいいなと思いました。写真家のプロフィールを見たら、その写真は作者が72歳で撮った作品だったんです。その時に、25歳から始めることは決して遅くないんだなと思ったんです。

 それで、決心して会社を辞め、商品撮影で有名な写真家のアシスタントにつきました。スタジオにはマネージャー、ファースト、セカンド、サードというランクがあったんですが、25、6になった大卒の女がこれまでの2分の1ぐらいの給与で、トイレ掃除などを担当するサードとして、一から仕事を始めました。

―――― プロのカメラマンとして日本ではどういう作品を撮られていたんですか?

 初めての職業カメラマンとしての写真は映画関係の仕事から入りました。大学の時に所属していた映画研究会の友人で、同期が映画・エンタメ情報誌「ぴあ」や映画雑誌「キネマ旬報」に入社していて、みんな3年ぐらいたつと、映画担当で第一線にたって、記者会見などに行くようになっていました。彼らか時々撮影で失敗してしまうから、記者会見で撮影をしてもらえないかと依頼されたのが始まりです。その時はプロとして撮影する自信がまだ無かったのですが、その友人に、「でも、カメラマンのアシスタントで何年も頑張って来たんだから、編集者の僕よりはうまく撮れるでしょ?編集者よりうまく撮れるなら、やってみたら?」と言われた一言が、私のカメラマン人生を開いてくれました。

 その頃は、小さな細かい仕事でしたが、若いし、体力もあったので、いっぱい仕事がもらえました。当時は、雑誌もまだ元気でしたし、一日3、4カ所記者会見を回って映画監督や俳優の方々を撮影していました。まだ写真を現像していた頃なので、夜12時ぐらいに帰宅して、そこから深夜2時3時まで現像作業を行って、それを編集部にFAXを入れて、絵が届いてから寝る。そこから翌日の朝6時や7時に家を出て撮影に向かうという、毎日平均睡眠3、4時間という日々を送っていました。本当に忙しかったですね。


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