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日本人戦犯45人の更生はいかに行われたか

人民網日本語版 2014年08月20日08:35

 中国人民共和国の建国後、接収・拘留された日本人中国侵略戦犯は1109人にのぼった。1956年、中国最高人民法院特別軍事法廷での審理を経て、このうち職位の高く罪の重い45人の戦犯が8年から20年の有期刑を宣告されたほかは、すべての戦犯が起訴を免れ、帰国を許された。人民日報海外版が伝えた。

 中国を侵略した日本帝国主義は、数えきれないほどの罪を犯した。だが中華人民共和国政府は、これらの中国侵略戦犯を広い懐で感化し、「反戦・平和」を高く掲げて中日友好関係の推進に貢献する大きな力に変えた。

▽数え切れない戦争犯罪

 これら1000人余りの戦犯による犯罪を単純に足しただけでも驚くべき数字となる。直接殺害された中国の民間人と捕虜は85万7千人余り、焼却・破壊された家屋は7万8千軒以上、略奪された食糧は3700万トン、石炭は2億トン以上にのぼる。1931年の「九一八事変」(満州事変)から敗戦・降伏まで日本帝国主義は数多くの悲劇を生み出した。平頂山虐殺や南京虐殺、潘家峪虐殺、劉店郷虐殺、四一二虐殺、重慶大トンネル虐殺、北疃虐殺などその犯罪は枚挙にいとまがない。

 今年7月3日から8月16日まで、中央公文書館は国家公文書局の公式ウェブサイトで45人の戦犯の自筆の供述書を連日公開した。7月だけで140万件のアクセスがあった。この時期の歴史についての証拠は山のようにあり、人々は歴史を決して忘れてはいない。

▽人道的配慮が魂を清める

 中華人民共和国の建国後、撫順・太原の2カ所の戦犯管理所に集められた日本人戦犯に対して、中国政府は寛大な措置を取り、長期的で忍耐強く苦しい更生を施した。

 中央公文書館資料保管部の研究員を務める周玉文氏によると、管理所は戦犯を罵倒したり侮辱したりすることは決してなかった。生活面では、季節に応じて衣類が配給され、アメなども与えられた。入浴は毎週1回、理髪は毎月1回とされ、肉・卵・牛乳の供給も保証された。

 1956年、戦犯管理所は、戦犯らによる北京・瀋陽・長春・哈爾濱(ハルビン)・天津・上海・南京・杭州・武漢の9都市への見学を何度かに分けて企画した。彼らは、かつて日本の侵略者の蹂躙と破壊を受けた地域にどれだけの大きな変化が起こったかを見た。

 南京の見学後、戦犯らは、南京市人民委員会に宛てた懺悔の手紙の中で、「私たちはあなた方の平和の楽園を壊しました。中国革命の先駆者である孫文先生が安眠する聖地で、あなた方の30万人以上の同胞を惨殺し、財産を略奪し、人類史上で例のない野蛮な暴行を行いました」と述べている。

 国家公文書局の李明華・副局長の紹介によると、中国特別軍事法廷が1956年、戦犯45人に対する審議を開始した際、すべての戦犯は法廷の指摘する罪のすべてを認め、弁明することはなかった。ある戦犯は号泣し、床に倒れ伏せ、厳罰を乞うた。第2次大戦後の国際法廷における戦犯の審議でほとんどの被告が罪を認めなかったのと顕著な対照を示している。

▽心から悔いて平和に尽力

 日本軍国主義は、中国侵略戦犯を戦争機械の血に飢えた悪魔に変えた。戦争が終わり、教育更生が施された戦犯は、軍国主義の悪霊から解き放たれ、今度は犯罪の記憶に苦しめられるようになった。

 「1号戦犯」と呼ばれた鈴木啓久は、瀋陽特別軍事法廷で審判を受けた際、雨のように涙を流し、「私によって何の理由もなく殺害され、平和な生活を破壊された人々を思うと、心が引き裂かれたように苦しい」と訴えた。

 1956年6月から8月まで、起訴を免じられた1000人余りの日本人戦犯が3回に分けて帰国した。判決を受けた45人の戦犯も、1人が服役中に死亡した以外は、ほとんどが刑期満了前に釈放されて帰国した。

 日本に帰国後、連絡の強化のため、釈放された戦犯らは共同で「中国帰還者連絡会」(中帰連)を設立した。会の目的は、平和的な生活を送るために互いに助け合い、日本と中国の間の友情促進と平和のために戦うことだった。

 「これらの戦犯は帰国後、ほとんどが中日友好を推進し守る力となった」と遼寧撫順戦犯管理所旧跡陳列館の張継承館長は語る。「中国国民がその寛容と人道の力で彼らを『悪魔』から『人間』に変えたのだと彼らは認識していた」(編集MA)

 「人民網日本語版」2014年8月20日

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