英紙「フィナンシャル・タイムズ」の中国語ウェブサイトに27日、日本嘉悦大学の経営経済学部の研究者・徐一叡氏による「東アジア共同体からTPPへ:日中の広がる距離」と題した文章が掲載された。内容は以下の通り。
「東アジア共同体」という言葉は日本ではすでに死語と化し、取り上げられることは日に日に少なくなっている。「日本経済新聞」の過去5年の記事を「東アジア共同体」で検索すると、352本の記事が見つかる。発表時期は多くが2010年に集中し、2011年以降は「東アジア共同体」という言葉が使われることは少なくなり、2013年と2014年にいたっては4本の記事しか見つからない。これに対し、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への関心は高まっており、関連記事は過去5年で5033本にのぼる。
この5年で日本に何が起こったのか。2009年9月の民主党政権発足当時、鳩山内閣が提出した東アジア共同体構想は日本の今後の発展方向とみなされ、中韓などの東アジア各国との協力強化と同時に日米関係の再構築という方針も打ち出された。鳩山氏自身も中日関係を高く重視し、日本とアジアの発展や東アジア共同体の実現には中国の助けが必要であり、中日関係を強化すべきだという考えの持ち主だった。鳩山首相の就任後、中日関係は顕著に改善された。鳩山首相の提出した「東アジア共同体構想」は、その総体的な道筋は不明確で計画も完全ではなかったものの、「アジアに回帰し、アジアに立脚し、アジアを重視する」という発想への転換は、中日関係の発展という民主党の根本的な戦略意識を打ち固め、高めるものとなった。
民主党政権発足からわずか3カ月後の2009月12月、当時民主党幹事長だった日本政界の大物・小沢一郎氏は、国会議員140人と第16回長城計画使節団の合計643人にのぼる訪中団を率いて北京に赴き、当時の胡錦濤・中国国家主席などの上層部と会談した。国会議員の半数近くによる訪中とあって、中日の多くのメディアはこれをこぞって報道した。小沢氏訪中の4日後、当時の習近平・国家副主席が日本を返礼訪問した。この相次ぐ2つの動きは、2010年の中日関係の新たな好転の兆しを指し示しているかのように見えた。
鳩山氏と小沢氏が中韓を含む東アジアとの協力を推進し改善すると同時に、鳩山内閣は民主党の選挙公約に基づき、沖縄県の普天間基地について米国との交渉を始め、同基地の沖縄県外移設を求めた。小沢氏はさらに踏み込み、日本にはそれほど多くの米軍は必要なく、在日米軍は縮小すべきだといった主張を始めた。こうした姿勢は米国の怒りを買い、普天間基地移設は暗礁に乗り上げ、鳩山内閣には日本中で批判されるようになった。日本外務省の国際情報局局長を務めた孫崎亨氏は、当時の鳩山氏と小沢氏が失敗した原因を次のように総括している。「米軍基地(普天間)問題と日中の接近によって、鳩山氏と小沢氏は米国という虎のしっぽを踏み、米国の圧力によって退陣を余儀なくされた」(孫崎亨『アメリカに潰された政治家たち』小学館2012年、引用は中文からの再翻訳)