2015年12月8日  
 

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残留孤児・池田澄江 「最大の願いは家族を見つけることではない」 (3)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第11期

人民網日本語版 2015年12月08日10:31

9歳になった頃、突然家が破産に追い込まれ、四方八方から借金返済に追われる生活へと一転、養父は投獄され、池田さんと養母の暮らしは貧しさを極めた。年越しの日は隣人からもらった肉を売ってとうもろこしを買い、数日間にわけて食べた。新年に新しい服を着れない池田さんを不憫に思い、養母は自分が嫁入りにもらった服を出して綿入りの上着にして池田さんに着せた。

生活を食いつなぐ養母にも限界がきていた。ある晩、池田さんは養母が寝床にいなくなったことに気づき、慌てて探してみると、養母が首をつる用意をしていた。池田さんは涙を流しながら「母がいなくなったら私はどうするの」と叫んだ。幼い池田さんのためにと、養母は歯を食いしばって耐え凌いだ。その後、池田さんは師範学校に入学、卒業後は山間部の林場にある小学校に配属され、幼少期の夢が実現する。その後、同僚の紹介で林場の作業員と結婚し、3人の子どもに恵まれた。

池田さんは多くの中国人と同じように中国での生活を続けていたが、気がかりが一つだけあった。「自分の身分はなんなのか、私を生んだのは誰なのか」。幼い頃、家庭が困難に直面するたび、「生みの両親が私と養母を助けにきてくれますように」と秘かに念じたこともあった。

1972年の中日国交正常化の知らせには、嬉しさのあまり夜も眠れずにいた。その新聞を部屋の真ん中に貼り付け、何度も何度も読んだ。その後すぐ池田さんは牡丹江に転勤となった。「中日友好の日が来た、生みの両親に会ってみたくなった」そう思った。養母のことを思いこっそりと情報を集めていたが、何ら結果は得られず、思い切って養母に自分の思いを伝えてみると、養母は気を悪くするどころか、進んで当初池田さんを引き取った李家に連れて行ってくれた。残念ながら李家はかなり前に引っ越したということで、結局重要な手がかりは見つからず仕舞いとなった。

養母の博愛は改めて池田さんの養母への敬意の念を深めた。池田さんは「養母は苦労の中を生きた人。私は実の子ではないかもしれないが、養母の愛は生母に勝る。養父母の愛は永遠に忘れられない。来世があるなら来世も養父母の子でありたい」と養父母への感激の思いを語る。養母はすでに他界して30年近くが経つが、残留孤児の養父母を見るたびに自分の養父母を思い出し、「様々な苦労をしながら敵国の子を育てる。どんな情況であれ、私たちそんな彼らの行為に感謝すべき。彼らがいなかれば私たちの今日はない」と自分に語る。


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