当時池田さんは他の残留孤児らと権益保護を訴え東奔西走した。「残留孤児は苦しい生活を余儀なくされている。この問題は日本政府が作り出したもの。あの戦争がなければこんなに苦しい思いをすることはなかった。日本政府は責任をとれ」。池田さんは各地の残留孤児らに連絡を取って署名活動を行ったが、日本政府が対応することはなかった。その後声をあげる人は増えたが、政府はなお相手にすることはなかった。それでも諦めることなく、2002年に2213名からなる残留孤児団体を組織して国を相手に訴訟を起こし、法律を活用して自分たちの権利を訴えた。「中国でも私たちの心中を知らない人は多い。勝訴して孤児を連れて中国に帰り、我々が恩を忘れていないことを伝えたい」という一心だった。
勝訴できると信じていたものの、2007年の判決で原告敗訴が決まった。それでも一連の活動で戦後の残留孤児は少なくとも日本社会の注目を集めた。2007年、中国国務院の温家宝総理(当時)が日本の国会で演説を行った際に、残留孤児の中日交流における重要性を表明した。池田さんは、この演説が残留孤児の生活状況の改善に大きく寄与したという。
2008年、日本政府はついに残留孤児とその家族を対象にした支援措置を講じた。公営の交通機関の一部が無料になり、医療も無料になり、各家庭に6万6千円の手当てがついた。各方面の多くの人たちの支えと、残留孤児らが一致団結して勝ち得た成果だ。池田さんは、原告団はこれで解散するのではなく、結束しなければならないと、2008年に「中国帰国者・日中友好の会」を設立、日本各地に散らばる戦後の残留孤児を束ねて意義ある活動をしようと立ち上がった。
新中国成立60周年を迎えた2009年は、同団体設立2年目の年でもあり、池田さんはかつての約束を守って「謝恩団」を組織し、残留孤児を率いてハルビンと北京を訪れた。そして養父母の墓に参拝し、中国国民への謝意を表明した。抗日戦争勝利70周年の今年も、池田さんは再び「謝恩団」を率いてハルビンと北京を訪問、李源潮国家副主席の謁見を受けた。
2008年の四川大地震発生の際には、池田さんは日本各地の残留孤児に連絡して義捐金を募った。その額は1750万円に上り、その大部分の資金で被災地に中日友好小学校を建設、様々な教育物資を寄付した。「口で中国が好きと言うだけでなく実際の行動で表現しなければならない。皆決して裕福ではないが、それでも快く出してくれた」という。
取材中、「私たちは日本人。でも中国で生まれ育った。中国は最愛の故郷であり、日本は私たちの祖国。日本は私たちの両親や兄弟姉妹が暮らす故郷であり、私たちは心から中日両国の人々を愛している」と池田さんはたびたび涙を流した。残留孤児の物語は、戦争を経験していない若い人でも、平和の大切さを感じることができると池田さんは信じている。「中日両国の平和と友好は私の最大の願いであり、中日両国の友好の架け橋として、命をかけてでも全力で貢献していきない」と池田さんは語った。(編集IM)
「人民網日本語版」2015年12月8日