2015年12月8日  
 

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残留孤児・池田澄江 「最大の願いは家族を見つけることではない」 (5)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第11期

人民網日本語版 2015年12月08日10:31

事務所の支援の下、日本にある中国領事館と連絡を取ることができた。領事館を訪れると、親しみのある中国語が聞こえ、思わず涙が溢れた。多少手がかりがつかめた後、池田さんは引き続き日本で家族を探し始めた。日本政府は材料が不十分としてビザの延期を拒否したが、現地の中国人と日本人記者などの支援を得ながら、子どもを連れて北海道から東京に移動、東京での家族探しが始まった。

明らかに戦後の日本人残留孤児であるにも関わらず、日本政府に拒まれる池田さんの遭遇は日本のメディアを通じて広く知れ渡った。そんなある日、河合という名の中国残留経験をもつ弁護士が裁判を手助けすると進んでやってきた。日本の家族を見つけ出せずにいたが、多くの人の支えがあって池田さんは1982年についに日本国籍を取得することができた。日本国籍取得の際に日本名をつけるよう要求されたため、かつて支援してくれた通訳者の苗字と養父母がくれた名前を残して「今村明子」と改名した。

その後池田さんは夫を日本に連れてきたいと考えたが、正式な仕事もなく、夫もビザを取得することができなかった。日本語ができないためにレストランの皿洗いや清掃員のアルバイトをするしかなかった。家族団らんを果たすため、そして老後の生活を保障するため、池田さんは正規の仕事を求め河合弁護士の事務所を訪ねたところ、河合弁護士は自分の事務所で試用期間1ヶ月からスタートして迎えてくれた。池田さんはこのチャンスをつかむため毎日9時から8時まで、事務所を隅々まで清掃し、コピーを手伝い、できることはなんでもやった。その勤勉さが認められ、1ヶ月後に試用期間は3ヶ月に延長され、その後半年に延長され、2年経ったときに正式に法律事務所の正社員として迎えられた。

業務は残留孤児の日本国籍取得サポート。関連の申請には申請者個人の経歴を説明する必要があったため、池田さんはこの間に他の残留孤児の様々な経歴を知ることになる。「1300人の書類を見た。一人一人の書類を見るたびに涙が溢れた」、「私も残留孤児だが、彼らは私よりもっと悲惨」。色々な思いを巡らせながら必死で彼らをサポートした。


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