日本の坪谷善四郎は「北清観戦記」の中で、1900年の義和団運動後まもない中国の風景を従軍記者として記録しており、特に天津の風物や事件に関する記録は研究価値が高い。たとえば大沽の砲台に関しては「清朝政府は塘沽駅を破壊する目的で、兵力を集めると同時に白河河口に水雷を設置し、北京-大沽間の交通を遮断した」と記録している。また日本と米国の軍隊について「最も親切なのはやはりアメリカ兵だ。彼らは日本兵を兄弟のようにみなし、暇があれば行き来している。言葉は通じないが、一緒に酒を飲み、日本兵の懐が豊かでないことを知っているので、大抵は彼らがご馳走し、酒やタバコを日本兵にくれる」という記述はまるで今日の日米関係を反映しているようだ。
東京高等商業学校東亜倶楽部が編著した「天津考察記」には天津の商業圏は、北は「満蒙」から西は山西省、陝西省、南は河南省、山東省までカバーしていたという。中国国内については南北の物品、特に上海での貿易が非常に盛んであり、対外的には日本との貿易が最も密接で「我々(日本側を指す)の貿易業者の勢力は非常に安定している」と記述している。編集者はさらに「日本排斥思想が生じた場合、まずその具体的な方法として日本製品の不買運動が生じる。このため日本製品の不買運動は貿易港で非常に盛んであり、特に日本から大量に物資を輸入し、経済的にも日本との関係が密接な港がより深刻だ。この点を鑑みると、南方では上海、北方では天津が日本排斥及び日本製品不買運動の主戦場となるだろう」としており、この見解は1920年代初頭のものであるが、その後の歴史の発展ともマッチしており、中日関係者が注目に値するべき点だ。