侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館は22日、同館の職員がこのほど、慰安婦犠牲者を見舞うために湖南省岳陽市に赴いた際、90代の被害者2人が初めて「慰安婦」だった事実を明かし、旧日本軍の暴行について訴えたことを明らかにした。この2人とは、彭仁寿さん(94)と彭竹英さん(90)で、同じ誕生日に生まれた姉妹という。新華社が伝えた。
彭仁寿さんは、「1939年秋、まだ14歳だった私は日本軍に捕まり、慰安所に連れて行かれ、ありとあらゆる屈辱を受けた。日本兵は、銃剣で私の腹部を10センチほど傷つけた後、遺棄した。偶然にも応急手当を受けることができて命拾いしたが、この傷が原因で子供を産めない身体になった」と当時を振り返った。
彭竹英さんは、日本軍の「慰安婦」制度の被害者だけではなく、細菌戦の被害者でもあった。日本軍は1938年、岳陽市で細菌兵器による攻撃を行った。当時まだ9歳だった彼女は、両目とも失明した。その後、日本軍に連行され、目が見えない上に日本語が分からなかった彼女は酷い罵倒や暴力を受けた。日本軍の暴行によって彼女もまた、出産能力を失った。
中国慰安婦問題研究センターの統計データによると、第2次世界大戦中、約40万人のアジア女性が日本軍に「慰安婦」として連行された。このうち、中国人女性は20万人を上回り、心身に非人間的なダメージを受けた。
南京利済巷慰安所旧跡陳列館の蘇智良・館長は、「彭姉妹が自らの身分を明らかにする前は、中国大陸部で慰安婦として認められ生存しているのはわずか14人だった」と話した。
同陳列館の職員は、「被害者にとって、思い出すのもおぞましい過去を世間に公開することは、大きな痛みを伴う行動だった。彼女らはこれまで長い間、苦渋に満ちた経験によって、息が詰まるような思いに苦しめられてきた。それでもなお、姉妹は、この悪夢を心の奥底に深くしまい込んでおこうと考えていたようだ。勇気を振り絞り、ついに当時の様子を語ってくれた時には、お姉さんはこみ上げる涙を抑えきれない様子で、妹さんの両手は、椅子の脚の部分を固く握りしめていた」と語った。
姉妹はかなり高齢だが、身体的にはすこぶる元気という。彭竹英さんの目は見えないままだが、記憶力は衰えておらず、いろいろな歌を歌うことができて、コミュニティでは「健康高齢者」と認められているという。(編集KM)
「人民網日本語版」2018年7月23日
このウェブサイトの著作権は人民日報社にあります。
掲載された記事、写真の無断転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257
Mail:japan@people.cn