安倍首相は第2次大戦終結70周年を記念する「安倍談話」の発表を計画しており、国際社会の注目を集めている。ドイツはこれについて沈黙を破り、メルケル首相の訪日は、第2次大戦の歴史認識について安倍首相に教え諭すという、日本が予想しなかった歴史講座となってしまった。ドイツの首脳としてのメルケル首相は、日本に対して行ったのは慣例的な実務訪問に過ぎず、外交儀礼から言えば「先生の身分」として日本を教育する必要性はない。だがメルケル首相が第2次大戦について日本に伝えたかったのは、歴史は書き換えることもごまかすもできないもので、その正当な評価を真剣に求めるべきだという正道である。(文:厖中鵬・中国社会科学院日本研究所専門家)
ドイツと日本との比較は世界でも早くからされてきた。ドイツが欧州一体化のエンジンとして世界的にも受け入れられたのは、ドイツがナチスの犯した罪悪と早くに向き合い、勇気と行動によって被害国の理解と信頼を得たためである。ドイツはナチスの暴行をごまかすことなく、その崩壊はドイツの「解放」であったとまで言った(ワイツゼッカー大統領の1985年の演説)。第2次大戦終結から70年の今年は、記念と同時に思考に値する重要な年である。硝煙は消えても歴史は客観的に存在しており、時が過ぎればなくなるものではない。侵略戦争によって被害を受けた国とその国民にとってはなおさらである。70年という節目は、人々に戦争の苦しみを思い返させている。歴史を汚してねじ曲げるような発言は、ファシズムに蹂躙された国とその国民の尊厳に泥を塗るものとなる。
国際社会とりわけ日本軍国主義の残虐な侵略を受けたアジア諸国とその国民は現在、大きな危機意識を持っている。安倍内閣が発表を予定しているとされる「安倍談話」が、第2次大戦終結70周年の敏感な年に、日本による侵略という事実を覆い隠すものとなり得ると伝えられているためである。「安倍談話」への関心が高いのは、談話そのものが非常に重要だからではなく、日本政治の今後の方向、とりわけ第2次大戦の侵略に対する日本の立場がこれを通じて判断できるためである。1995年の「村山談話」における「(アジア諸国に対する)植民地支配と侵略」という文言を残しているのであれば、国際社会は何とかこれを受け入れられるだろう。だがもしもこの文言が消され、ごまかしの言葉がこれに代えられ、さらには侵略の美化に余地を残すものとなるのであれば、「安倍談話」は、世界の良識に向かってたたきつけられた挑戦状となる。そうなれば日本は国際社会という大家族から隔絶されることになる。犠牲の上に実現された第2次大戦後の平和的国際秩序には、破壊的な日本を受け入れる余地はない。
「安倍談話」を考えるには、第2次大戦のアジアの主戦場であり、世界の反ファシズム戦争の主要参加国の一つであり、日本の軍国主義の侵略を受けた国である中国が問題となる。「安倍談話」は、中国というトピックを避けては通れない。「安倍談話」がいかにそれを語るにせよ、中国というトピックは客観的に存在しており、回避はできない。
メルケル首相は訪日で、「和解の前提は過去の総括にある」「ドイツの和解は過去と向き合うことで初めて可能となった」と繰り返した。安倍首相はメルケル首相のこの言葉を聞いてどう思っただろうか。メルケル首相は正しい。第2次大戦で欧州を戦場に変えたドイツの反省なしには、欧州全体の和解もなかった。欧州の和解は、ドイツによる過去の総括の上に成り立つもので、この総括がなければ和解全体が崩れる。