青山杉雨氏の書斎「師寧堂」で父親の思い出の品を手に取る青山慶示氏
篆書・隷書を土台とした独自の書風を確立した昭和の書を代表する書家、青山杉雨(あおやまさんう)氏(1912-1993)は中国伝統の文人の生活スタイルをこよなく愛していた。恐らく、青山氏は中国の文人の1人になりたがっていたのかもしれない。しかし、結局のところ、青山氏は中国を非常に愛する日本人でしかない。中国文人の生活を敬愛する青山氏の自宅での生活はどのようなものだったのか?東方早報が伝えた。
青山氏は、中国文化や書画・芸術に対し一貫して深い愛情を抱いてきた。これは、青山氏の蔵書や創作、これまでの海外渡航歴を見れば一目でわかる。
中日両国は国交を樹立していなかった1958年、日本の書道の大家、豊道春海氏(ぶんどうしゅんかい/1878-1970)が日本訪中書道代表団を率いて香港、羅湖を経由し、列車に乗り換えて北京を訪れた。故宮博物院の奉先殿で豊道氏が「平和友好」の巨大な書を揮毫した時、豊道氏の後ろで墨入れを持っていたのが、若かりし頃の青山氏だった。そしてこれが、青山氏にとって書の故郷を訪れた初めての体験となった。これ以降も、青山氏の中国への愛は一貫して変わらず、特に国交正常化の後は、1、2年に1度は中国を訪れた。その愛は書画だけにとどまらず、歴史や文化遺産、自然、風俗、民情などにもわたった。さらには、「江南遊-中国文人風土記」という旅行記まで出版した。東京国立博物館の島谷弘幸副館長は、「青山氏は中国の文人の思想や生活スタイルをこよなく愛していた。おそらく、青山氏自身も中国の文人の1人になりたかったのかもしれない。しかし、結局のところ、青山氏は中国を愛する日本人でしかない」と語っている。