2016年5月27日  
 

中日対訳健康知恵袋 企画集 北京のお気に入り

Apple新浪ツイッターFBLINE微信RSS
人民網日本語版>>中日フォーカス

中国で一生を、ある日本人孤児の物語

人民網日本語版 2016年05月27日14:31

王林起さん(日本名、渡部宏一さん)が幼い頃両親と撮った写真

1981年5月、46歳の王林起さんは成田国際空港に降り立つと、肉親探しの旅へとその第一歩を踏み出した。新京報が伝えた。(文:孔雪、王林起氏の自伝『私の中国での75年』より一部引用)

王林起さんの日本名は「渡部宏一」だ。渡部家の親族6人が写真で「渡部宏一」の身元を確認してくれた。渡部家は家族6人で1940年代の初めに日本開拓団のメンバーとして中国の東北部に渡った。そして6人家族のうち、彼以外は亡くなるか、行方不明になってしまい、一人生き残り、不惑の年も越えた宏一さんだけが故郷の土を踏んだ。

宏一さんは顔を合わせた親戚6人とは互いにほとんど交わす言葉も無く、気まずいとすら感じ、「この日会った人々」にはあまり親近感を覚えることができなかったと思い起こす。彼は中国から来た人間として恥をかかないようにと、特にかっちりした中山服に身を包み、手にはそこそこ見栄えのする旅行鞄を二つ持っていた。その晩、約40年の時を隔て、「宏一さん」は再び彼の生まれた場所で、畳に横になって深い眠りについた。

〇離散 ばらばらになった家族

1940年秋、5歳の宏一さんは開拓団のメンバーの一員として、家族と共に山形県から中国の東北部へとやってきた。

宏一さんの父親は勤勉な農民で、数年で渡部家は村の丘陵の荒れ地を開墾したばかりか、家畜も飼えるほどになった。ようやく暮らしが成り立ち始めた頃、日本軍は政局を挽回するため、開拓団内で徴兵を行った。宏一さんの父親にも召集がかかり、間もなくソ連で亡くなってしまった。しかしこれは渡部家にとって家族の離散の始まりに過ぎなかったのだ。

1945年8月11日、「引き揚げ命令」の悪夢が突如襲いかかる。開拓団の農民たちは日本に遺棄された難民となったのだ。集団自決という運命から逃れるため、難民たちは南へと避難を始めた。その混乱の中で、妹の登美子とははぐれてしまい、母親は瀋陽の難民キャンプに到着後、ある晩ソ連兵の襲撃を受け死亡。中国で生まれた幼い弟の秀策の生死も不明で、混乱の中で見知らぬ男性に抱きかかえられて連れ去られてしまった。宏一さんともう一人の兄弟もそれぞれ中国人に引き取られたが、生き残ったのは宏一さんただ一人だった。


【1】【2】【3】【4】

関連記事

関連特集

コメント

最新コメント