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2世代にわたって奏でられ続ける「中日友好の調べ」

人民網日本語版 2016年11月07日11:22

1982年、日本人の同級生・安達猛さんと池谷田鶴子さんが学校の職員だった薛明皋さんと再会したときに撮影した写真。

1948年春、河北省平山県古賢村にある晋察冀軍区栄臻学校に、十数人の日本人の学生がやって来た。そのうちの安達勇君と田子和さんが私と同じクラスになった。(文:北京市八一学校1952年度卒業生 景暁起。北京晨報掲載)

その日本人の学生たちの両親は皆医者だった。1945年、中国が抗日戦争に勝利して以降、北京には高い技術を誇る日本人医師がたくさんいた。さまざまな理由で、日本に帰れないその日本人医師たちをめぐって、中国の国民党と共産党が争奪戦を繰り広げていた。進んだ思想の持ち主である病理学教授・裨田憲太郎さんの影響と指揮の下、その医師たちは北京の国民党軍隊の誘いを断り、共産党の秘密地下組織と連絡を取るようになった。裨田さんは招きに応じて、秘密地下組織の指導者だった劉仁氏と北京の西山で顔を合わせた。彼は、西山にある我が軍の駐屯地で熱い歓迎を受け、人民軍の仕事ぶりや厳しい紀律を見て、腐敗していた国民党の軍隊とは全く違うことを知った。劉氏の招きで、彼は解放区の八路軍(共産党軍)に加わることに決めた。北京の秘密地下組織の手配で、裨田さんは日本人医師約20人を引き連れて、河北省張家口を訪れた。そして、晋察冀軍区衛生部の殷希彭部長の紹介と手配により、八路軍に加わり、白求恩医科大学の前身である張家口医校で働くようになった。裨田さんは同軍区の衛生顧問、張家口医校病理研究室の室長になった。46年、国民党の反動派が内戦を起こし、張家口は敵軍の主な攻撃対象となった。同年9月、戦いを目の前にしていたものの、日本人医師たちは我が軍に残ることにし、学校が張家口を撤退したのと共に、河北省唐県にある晋察冀軍区後方の病院にやって来て仕事を始めた。同病院はそれからしばらくして「白求恩国際平和病院」という名前に変更し、48年5月に石家庄へ引っ越した。その時、同病院には日本人医療関係者が100人以上いた。安達さんの父親である安達仁さんは医師として病院の外科主任を担当し、部隊と共に太原戦役などにも参加し、最も危険な前線で負傷した兵士の救護に当たっていた。田子和さんの父親である津沢勝さんは医師として同病院の内科主任を務め、母親は小児科の医師を務めていた。日本人医師たちは勤勉に働き、苦労もいとわず、苦難に満ちた戦争時代に、優秀な医療スタッフをたくさん育てた。そして、解放軍の衛生部門の中核を担った。


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