「光陰矢の如き」、十六年前に始まった「日中友好中国大学生日本語卒業論文コンクール」は、図らずも、幾多の春秋を経て、今日まで辿り着いたこと、感無量と言わざるを得ません。その功労者の名に輝いた当コンクールの発起人である小野寺先生に敬意を表したいと思います。「継続は力」とも言われるように、十六年間の継続により築かれた礎は、しっかりと中国の日本語教育史上に残され、後人に銘記されると思われます。
今年の十六回目のコンクールの最大の特徴は、一口に言えば、「量減質増」ではないかと思います。応募論文数は例年より若干減少したものの、集まってきた論文は、レベルの高いものが多いことに驚きました。レベルの高さの表れは、まず論文の着眼点の良さにあると思います。次に論理的分析の思考回路の構築、既存の言語学理論の駆使、研究方法の運用、結論までの導き方、どれをとっても、学部生の論文にしては、驚嘆に値するぐらいの価値のあるものが多かったのです。日本語教育全般にとっては、「量より質を」の時代の到来を象徴的に表しているのではないかと思います。
しかし、問題がないわけではありません。顕著な問題点を敢えて三点指摘したいと思います。
一つは、テーマの問題。卒業論文にとっては、テーマこそ一番大事なことと言えましょう。着眼点のいいテーマが果たしてうまく自分の学力でカバーできるかどうかも、テーマの問題であり、注意すべきところでしょう。その意味であまり適切ではないようなテーマを扱う論文は少なくありません。テーマ自身が大きすぎる一方、内容が貧弱で、まるで雲を掴むような言葉で綴られた論文は依然として存在しています。
次は、研究方法の問題。先行研究と基礎理論に対する散漫な態度が随所見られることが挙げられます。論題に関する先行研究に全く触れていないとか、基礎理論を間違えて使っているとかいうようなことは、学問をする上で大問題として、注意すべきだと思います。
三番目は、論文の格式(書式)の問題。昨年も指摘したが、注釈と引用、または論文作成の段階で使われたデータの扱い方なども、必ずしも全部きちんとできているとは言えません。これは、内容も大事だが、書式(格式)も論文としての必須条件という認識がまだ一部の大学或いは指導教官には定着していない現状を現れていると思います。そもそも、注釈や引用或いは書式の整っていない論文は、所属大学と指導教官の責任が大きいことは否定できません。なぜかと言えば、これらの問題は、論文のレベルとか云々する以前の問題で、学術規範上の問題であるからです。
当コンクールの今後のますますの発展を楽しく見守り、期待を寄せながら、本年度の所感として上記の思いの断片を取り留めなく綴り、筆を擱きます。
王健宜 南開大学教授
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